三世。人生で一番不幸なことは何かわかるか?

 俺がまだガキの頃の話だ。ある時、久しぶりに顔を合わせた祖父さん―――当時はまだ元気で、ふらりと出て行っては何か月も帰ってこないということがよくあったのだ―――に、開口一番でそう聞かれたことがある。久しぶりに会った孫に『元気か』と問うわけでもなく突然そんなことを言うものだから、生意気盛りの俺は反感もひとしお。鼻を鳴らして『わかるわけない』とぞんざいに答えると、祖父さんはそれを咎めもせずにこう言った。

「よく憶えておくがいい、三世。人生で一番不幸なことはな、自分が不幸だということに気が付かないことだよ」

 何故かその時のじいさんの表情が酷く哀しそうに見えたことを、俺は今でも鮮明に覚えている。
 薄荷パイプの煙を燻らしながらそう言った祖父さんにも、そんな、不幸だった時があったのだろうか。




9. side-LUPIN





 空との境目が僅かに白み始めたもののまだ星の残る夜空の下。俺はアクセルを踏み込み、エンジンと古びた空調の音だけを聞きながら人気のない道をひたすらに車を奔らせていた。どこか行くあてがあったわけではない。今はただあの街から遠ざかれればよかったのだ。
 今頃、カルロの屋敷には警察が大挙して乗り込んでいるだろう。俺が踏み込んでいる間に、早耳のじいさんがビアージ一家が手を出していた麻薬密輸の情報と連続殺人事件の証拠を警察に流したのだ。これで遠からず俺の殺人容疑も晴れるだろう。組織の主要幹部は逮捕されるだろうし、そうなれば組織は壊滅。これでもう俺や次元に手を出すような余裕などないだろう。暫くは報復を叫ぶ残党が煩いかもしれないが、それにしたって組織ぐるみで命を狙われるのと比べれば大したことはない。
 そんなことを思いながらちらりと視線を流す。助手席に座る次元は黙ったまま薄く白く曇った窓の外を見ていた。屋敷を出てから一言も喋らないが、目深に被った帽子の下で何を想っているのだろうか。汚れたシャツ。血は止まったようだが腫れた横顔は痛々しい。

『三世。人生で一番不幸なことは何かわかるか?』

 ずっと忘れていた祖父さんの言葉を今更ながらに思い出したのは、早耳のじいさんが俺に語って聞かせた次元大介という男の身の上話のせいだろう。それは、どこにでもいる普通の少年が死神にならざるを得なかった、物語のような昔話。
 本当の不幸は、不幸を不幸と思わないこと。不幸だと感じる心を失うこと。祖父さんが言いたかったことは、多分そう言うことなのだと思う。
 次元はアランという男を殺したときその心に仮面を被せてしまったのだ。そうでなければ自分が壊れてしまうから。初めての殺しの罪悪感と衝撃はただでさえ生涯忘れられないほどに深いのに、しかもそれが兄のように慕った相棒だったならば尚更だ。
 心を殺し何も感じないようにすれば、引き金を引く度に自分が傷つくこともない。大切な人間を手にかけた罰として引き金を引くことを自分に課す。もちろん金のこともあったのだろう。だがそれ以上に、自分のような男には殺し屋がお似合いだと思っていたのではないだろうか。血で血を贖う無限ループ。どこかで断ち切らなければ、次元はそう遠くない未来に壊れてしまっていただろう。人間の心はそれほど強くない。
 次元は多分、自分が不幸だなどとは思っていなかったはずだ。だが、そんな贖罪の為だけの人生が幸せなはずがない。

 ハンドルを握りそんなことをぼんやりと考えていると、不意に横で次元が動いた。横目で様子を窺うと、どうやらポケットに手を突っ込み煙草を探しているらしい。だが見つけ出した箱は完全に潰れてしまっていて、そんな状態では中の煙草も無事ではなかったようだ。箱を覗き込んだ後に小さく溜息をついて握りつぶす。それを横目に俺は、少し躊躇いつつもポケットから取り出した自分の煙草の箱を横から差し出した。
 次元は目の前に差し出された青い箱に一瞬戸惑った様子を見せたが、以前のように無下に断ることはせず黙ったままゆっくりと箱に手を伸ばした。

「…あら。宗旨替えしたの?」
「馬鹿言うな。無いよりマシってだけだ」

 てっきり断られるかと思っていたから、予想しなかった出来事に茶化すような言い方になってしまってじろりと睨まれた。咥えたジタンにシガーソケットで火を点けて深く煙を吸い込む。だが、すぐに灰皿に突っ込んで不機嫌そうにぼそりと「不味い」と呟くから、俺は思わず噴き出してしまった。

「笑うな」

 またも俺を睨んで不機嫌そうに顔をしかめ、それからぷいと窓の方を向いてしまった。だがその声に以前程の険悪さはない。世界の全てを拒否するかのような刺々しいオーラもなくなり、肩の力が抜けたように俺には見えた。

「…なあ、次元?」
「何だ」

 呼びかけると、思った以上に落ち着いたトーンで返事が返って来た。

「聞いてもいいか」
「何を」

 曇った窓の外を眺めたままの横顔に、問う。

「どうして――――」

 どうして、カルロを撃たなかった? と。

 そう。次元はカルロを殺さなかった。
 『決めるのはお前だ』そう告げた俺に、次元は戸惑いを見せながらもカルロに銃口を向けた。当然だろう。カルロはビアンカの殺害を命じた張本人なのだ。殺しても飽き足らない程の憎しみを持っていてもおかしくない。だが、そこから放たれた銃弾はカルロをとらえていたが、致命傷を与えるには程遠かった。血を流しながら喚くカルロを一瞥し、次元と俺は屋敷を後にしたのだ。もちろん次元の腕を考えればわざと殺さなかったとしか思えない。何故? 俺には分からずにいた。

「…………全くお前って奴は…」

 質問を無視されたのかと思う程に長い長い沈黙の後。エンジンの音ばかりが響く沈黙に耐えきれず俺が再び口を開きかけたその時、溜息と共に低い呟きが零れた。そして。

「この前はなんで殺したって問い詰めた癖に、今度はなんで殺さなかったって責めるんだな」

 こちらに向き直りそう口にする次元は困ったように眉を顰めて、ほんの僅かに、だが確かに、笑っていた。俺は運転中だというのに思わずその顔を見詰め返してしまい、前見て運転しろと怒られてしまう。
 次元が俺にほんの僅かでも笑顔を見せた。それは俺たちが出会って初めてのことだった。いつも不機嫌そうに結ばれていた唇が僅かながらでも上向きに弧を描いている。ああ……やっぱり笑えるんじゃねえか。そんな表情(かお)で。
 呆然と言葉を忘れている俺を置き去りに、次元はそれからゆっくりと口を開く。

「世の中には死ぬよりも辛いことがある。そうだろう?」
「…ああ」

 死んでしまえばそこで終わりだが、助かれば奴は刑務所に入れられる。これから一生かけて罪を償う羽目になるだろう。世間は決して奴を赦さないだろうし、それはある意味死ぬよりも辛い。

「それにな…」

 ふと言葉を切ってゆっくりと溜息をつく。

「…奴を殺してもビアンカが生き返るわけじゃねぇさ…」

 窓の方を向きぽつりと溢された声は今にもエンジンの音に掻き消されそうなほどに小さく俺に届いた。その声が哀しくて寂しくて、俺も心を締め付けられる気がした。
 始めは贖罪のつもりだったのかもしれない。だがいつの間にか本当にビアンカを愛していたのだ。そうでなければ、俺が見たようなあんな優しい顔はできない。
 “死神”と呼ばれた男は、決してそうなることを望んだわけではなかった。生きるために握った拳銃で大切な人間を殺し、その代わりに自分が生きのびたことをずっと後悔してきたんだろう。後悔しながらも大切な人を守るために生きることを選んだのに、またも自分のせいでその大切な人を失ってしまった。やはり自分は“死神”なのだと、それが自分の宿命なのだと、そう己を呪うこの心優しき死神を俺は助けたい。次元の為に。そして、俺の為に。

 俺には次元が必要なのだ。

 俺なんかがすぐに認められるわけがないのは分かっている。だが、一緒に走りながら感じた、スリルに身を委ねるゾクゾクとした快感も興奮も決して忘れられない。こいつとならやれる。そんな直感は今も俺を強く突き動かしている。
 そしてじいさんの話を聞いてようやく気付いたのだ。それは俺が次元大介という男の存在にこの上ない安寧を感じているということ。それは、同士を見つけたことへの安堵感だということ。
 次元は俺に似ていたのだ。心に蓋をすることで、仮面を被ることで与えられた役割を踊ろうとしていた、"ルパン"という名に押し潰されそうになっていた頃の俺に。なんとか"ルパン"になりきろうと足掻いていた頃の俺に。
 幼いころから帝王学を学ばされ、犯罪に関するありとあらゆる手解きを受けた俺は、いつでも周囲の期待に応えようと必死だった。周囲のやっかみや口さがない言葉に負けないように必死だった。俺が三世だと周囲に認めさせるために必死だった。同年代の友人などもちろん一人もいなくて、我ながら冷めた目をしたいけ好かないガキだったと思う。それが普通ではないということはぼんやりと理解していたが、実感があったわけではない。ルパンであることを嘆いたことはないし今の自分を後悔しているわけではないけれど、もしルパンに生まれなければと考えたことはある。じいさんに『一番不幸なことは何かわかるか?』と問われたのはそのころのことだったはずだ。きっと、じいさんには俺がこの上なく不幸に見えていたのだろう。

「止めてくれ」

 横から言われるままに俺はブレーキを踏んだ。岬のような海べりの道には他に通る車もいない。道端に寄せて止まると次元はドアを開けて外に出る。俺もそれを追って車を降りた。風が身を切るほどに冷たくて俺は肩を竦めた。
 風に飛ばされそうな帽子を片手で押さえ、ジャケットの裾をはためかせながら次元は黙って海を見詰めていた。水平線にゆっくりと姿を現し始めた太陽が世界を明るく染め、天上の星もいつしか姿を消そうとしている。夜の闇になれた目にはその柔らかい光ですら眩しくて俺は目を細めた。

「お前、これからどうするんだ?」

 小さく問うた。ここでこのまま別れてしまったら二度と会わないだろうという予感。引き留めるならば、今しかない。行くあてがあるのか? そう問うと次元は小さく肩を竦めた。

「んなもんねえけどな。でもまあ…とりあえず殺し屋も用心棒も廃業だ」

 なにしろ雇い主を撃っちまったからなあ。崖下から吹き上がってくる風の音に掻き消されそうな声でそう言って、静かに笑う。確かに信用第一の世界では裏切りは何よりも重い。

「お前さんには世話になった。いずれこの借りは返すが、当分会うことはないだろうぜ」

 ぶっきら棒にそう言って、左足をかばいながら踵を返す。またそうやって蓋をするのか? 心の奥に背を向けて、仮面を被って、何も感じないようにして、お前はこの先の人生を無為に生きるつもりでいるのか? 折角俺の前で笑ってくれたのに? そう思ったら悲しくて、寂しくて、そして、何故か酷く腹立たしかった。
 お前はそれで幸せなのか? お前はお前の為に生きようとは思わないのか? 心にぽっかり穴を開けたままで生きていけるのか? 不安と怒りと哀しみと、ありとあらゆる感情がないまぜになってふつふつと喉元に湧き上がるのを抑えきれなくて、遠ざかろうとする黒い背中に向かって俺は叫んでいた。

「待てよ次元っ!」

 鋭い声に驚いたような顔をして振り返った次元。お前はお前の為に生きろ。もしそれでもお前が自分の為になど生きられない、誰かのためでなければ生きられないと、そう言うのならば――――。
 そして俺は、風と波の音に負けぬように、さらに大きな声で叫んだ。

「俺と一緒に来い! お前の居場所は―――ここだ!」

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