咄嗟に、何を言われたのか理解できなかった。
水面から顔を出し始めた朝日が、後光のようにルパンを包み込む。それが酷く眩しくて俺は目を細めた。潮風の匂い。頬を切る冷たい空気。
時間が、止まったと思った。
「お前の居場所はここだ。俺と一緒に来い」
呆然とする俺に言葉が届いていないと思ったのか、もう一度、噛んで含めるようにしてゆっくりとルパンが告げる。それでも俺は、その言葉がまるで聞いたことのない国の言葉ででもあるかのように理解できなくて、ただ黒い瞳を見詰め返すことしかできなかった。
「お前…」
何か言わねば。その思いだけが先走って、冷たい空気に強張った唇を緩慢に開く。だが漏れた吐息は白い綿のように空気を暖めるだけで、密度を持った音になろうとはしない。冷え切った指先に血を通わせるかのようにぎこちなく手を握りしめた。
「………お前は…俺の何を知ってるっていうんだ…?」
随分時間が経ってからようやく思考停止状態で零れた言葉は情けない程にか細く、そして我ながら残念になるほどに子供みたいだと思った。拗ねたところでこの男は何も知るわけはないし、それどころか本来なんの関係もないというのに。
「…知ってるといえば知ってるし、知らないといえば知らないなぁ」
ルパンは片方の眉を器用に上げて、空とぼけた風に答える。俺の戸惑いなど気にも留めた様子のない、飄々とした声。
「…早耳か?」
俺の問いに小さく頷いた。
「でも俺はお前を相棒にしたい」
反論の言葉を紡ぐ間も与えずこちらを見詰めてそう言い切る男を目の前に、俺は小さくため息をつく。そんな、真っ直ぐな瞳と情熱的な声で願望を口に出せる男を俺は―――――心底羨ましいと思った。
「―――断る」
「どうして?」
「俺は誰とも組まない」
「…そうやって意地張って独りを貫いて、誰にも知られずに野垂れ死ぬのつもりか?」
少しトゲのある声色。俺を挑発するつもりなのか、それとも。
「少なくとも、俺ならお前の骨を拾ってやるくらいはできるぜ?」
「余計なお世話だ」
どこまでが冗談か本気かわからない言葉に、感情を動かすことなくそう答える。ここで挑発に乗ってはルパンの思うつぼだろう。
たとえ俺が世界の果てで誰にも知られずに野垂れ死んだとしても、それはこの男には何一つ関係ないし、俺がそのことを後悔するはずもない。むしろ俺は、そうなることを望んでいるのだから。
「―――なんで、俺にこだわる」
ルパンは俺なんかとは住む世界が違う人間だ。泥棒としての実力も裏の人間としての凄味も迫力も、そんじょそこらの人間には太刀打ちできないものを持った男が、何故俺のような屑人間を欲しがる? 何よりも、俺にはそれがわからない。どうして放っておいてくれないのだ。感情を揺り動かすこともせず、ただ淡々と生きてきたのに。どうして今更俺の心を揺り動かすのだ。どうしてそっとしておいてくれないのだ。
「…言っても、今のお前には分からないさ」
少し考えるそぶりをした後、ややあって溜息のようにそう溢し、ルパンは小さく笑った。何故だろう。その顔が俺に酷く寂しそうに見えた気がしたのは。だがそれも一瞬のことですぐに飄々とした顔に戻ると、俺に問う。
「お前は何を恐れてる?」
「何を――――」
思ってもいなかった問いにどう言葉を続けていいのかわからず、俺は唇を噛んだ。恐れてなどいないと虚勢を張ってみたところで、おそらくこの男にはお見通しなのだ。いや、多分この男には全てを見透かされている。俺が何を恐れているのかなど。
俺はもう、俺のせいで不幸になる人間を見たくない。大切な人間を失うことで傷つきたくない。
だから、だからどうか俺に関わらないでくれ。俺の中の他人との境界を踏み越えようとしないでくれ。
けれど。
もう遅い。
「俺と一緒に来いよ。次元。俺の相棒になれ」
またそう続けられた。黒い瞳でじっとこちらを見詰めるルパンの声はどこまでも静かで穏やかで、そして、優しくて。
その声に、蓋をして閉ざしたはずの心が揺れ動くのを感じた。境界を踏み越えようとしているのはルパンじゃない。俺自身だ。
「お前の相棒、俺じゃ不足か?」
「そんな…!」
そんなことねぇ。むしろそう問いたいのは俺だ。天下の大怪盗ルパン三世の相棒が俺なんかでいいのかと。だがそう問うことすらできずそれきりまた俯き黙り込み、俺は口に出せぬ言葉を飲み込もうと咥えまま火も点いていない煙草のフィルターを噛みしめた。
血にまみれて悪魔のように嗤う姿も、こうして穏やかに微笑む姿も、どちらもルパン。そして俺はそのどちらもに魅入られていた。この男のことをもっと知りたい。できることならこの男の隣に居たい。感情を殺して惰性のように生きていた自分がいかに色褪せた世界に身を置いていたかを知ってしまったから。目が覚めるほどに鮮やかな世界を見つけてしまったから。もうあんな世界には戻りたくないと思う。だがその反面で恐れを感じてしまう。俺なんかが、そんな世界に踏み込んでいいのかと。
そして何より、そんな鮮やかな世界を失う時のことを考えてしまうから。惹かれれば惹かれるほどに拒絶するしかないのだ。どうせ失うのならば、最初から手に入れない方がいい。
「なあ次元」
「…なんだ」
「俺は死なねえよ」
その言葉に、俺は弾かれたように顔を上げていた。思っても見なかった言葉には耳を疑う。だが目の前の飄々とした表情のルパンは俺の驚きなど気にも留めていないようで。
「何を―――」
「俺は、死なねえ。絶対に」
呆然とする俺に、ルパンは一言一言噛んで含めるようにして告げ、そして、にやりと悪戯っ子のように笑い、小さくウインクしてみせた。ああ、見透かされている。俺のちっぽけな不安など。
「次元」
つっと近寄ったルパン。伸びた手がトンっと俺の胸元に置かれた。
「お前は、どうしたい?」
死神ではない。次元大介というお前自身はどうしたい? そう問われた。
答えはもう出ている。だがどうしても俺はそれを認めるわけにはいかなかった。死神である俺がそれを赦さない。境界を踏み越えることを赦さない。心の仮面を剥ぐことを赦さない。
お前は人殺しだろう? 他人の血にまみれて地面を這いずって誰にも知られずに野垂れ死にするのがお似合いだ。死神が、俺の耳元で俺自身を嘲笑う。
「俺は…」
「お前はお前の為に生きようとは思わないのか?」
俺の為に。そんなこと、ずっと忘れていた。いや、ある意味では俺のためだった。贖罪という名の自己満足。だがそれが真の意味での己のためだったかと問われれば、それはわからない。そして、自分の為に生きろと言われても俺は俺の為に生きたことなど今まで一度もなくて、だから俺にはどうしていいかわからない。耳元で嘲笑う死神を殺す方法もわからない。何もかも、わからないことだらけだ。
黙りこくった俺の胸元から今度は伸びた手はいつの間にか俺の銃を引き抜いていた。安全装置のかかったままのそれを器用に掌で弄び、そしておもむろに俺に向ける。
「もしお前が、それでも自分の為になんか生きられないとそう思うんなら―――」
カチリと小さな音を立てて安全装置が外れ、撃鉄が上がった。俺はそれを現実感もなく見つめていた。冷たい風が耳をちぎりそうに吹いていく。
そして、その黒い瞳で真っ直ぐに俺を見詰めたまま。
ルパンは、確かに、笑った。
同時に乾いた銃声が鳴り響いた。キンとした耳鳴りの中、俺は銃弾に吹き飛ばされた帽子がぱさりと乾いた音をたてて地面に落ちるのを聞いた。
「…死神次元大介はたった今死んだ。これからはルパン三世の相棒として、俺の為に生きろよ」
朝日に照らされたその笑顔は、風が吹きすさぶ真冬の空のように清々しく、そして同時にドロドロとした背徳の匂いを漂わせて背筋がゾクゾクするほどに魅力的で。
ああ、俺はこの男からは絶対に逃れられない。そう、思った。
「ま…」
負けたよ。お前には。溜息のようにそうつぶやくと、ルパンはそんな俺を見詰めて満足そうに笑って銃を下ろし、そして俺に手渡した。
何事もなかったかのようにルパンがポケットから取り出したジタンに火を点けるのをぼんやりと眺めながら、俺は思う。
俺が何の為に生きていくのか。今すぐに答えは出ないだろう。身についた長年の習性は簡単に無くなるものではないし、その答えを見つける間だけでもルパンという男の隣にいるのもいいかもしれない。そう思った。だがきっと、そう思うことも俺にとっては言い訳以外の何物でもないのだろうとも思う。まだ性懲りもなく耳元で嗤う、かつて死神だった俺への。
「お前、本気で俺を相棒にしたいのか?」
「本気じゃなけりゃお前を助けにマフィアのアジトに単身乗り込むなんて馬鹿なことしねぇよ」
「―――本当に。俺でいいのか?」
随分躊躇って、ようやく聞けた。俺でいいのか。俺なんかでいいのか。するとルパンはふっと笑いを収めて煙草の端を噛み、真面目な顔になる。癖のある香りが潮風に混じって流れた。
「―――お前じゃなきゃ駄目なんだ」
真っ直ぐな目は、やはりどこか寂しそうに見えた。
ルパンにはルパンの物語があるのだろうか。いつか俺がそれを知る日は来るのだろうか。そんな日が来ればいいと思った。この世界一の男が心を開いてくれる日が来るといい。傍らに立つ自分にだけ見せてくれる顔が増えてくれればいい。そんな風に思った。
俺を嗤う死神の声が、少し遠くなった気がした。
「乗れよ、次元」
「おう」
アスファルトに落ちた穴の開いた帽子を拾い、促されて素直に助手席に滑り込む。もう戸惑いはなかった。ルパンがハンドルを握った車は朝日に向かって静かに走り出す。
「どこへ行く?」
「さあ。でもとりあえずは着替えと風呂な。その格好じゃあ飯も食いに行けねえだろ?」
言われてようやく自分が血まみれのスーツのままであることを思い出す。額の傷も血は止まっているがかなり目も当てられない面相になっているに違いない。
「とりあえずは国境を越えたとこで一番近いアジトへ行くぞ」
「ん」
シートに身を埋めてそれから少しだけ窓を開けた。潮風と排ガスの匂い。ああ、生きている。なんだか無性にそう感じた。
「次元?」
「…何だ?」
「―――――――――――」
エンジンの音に混じって聞こえてきた声。
すっかり顔を出した朝日の眩しさが目に沁みて、俺は深く深く帽子を被りなおした。
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