狙った獲物は逃さない。欲しいものは全て手に入れる。
それが、ルパン三世。―――――俺の生き方だ。
「ルパン…ルパン?」
窓辺の長椅子に身体を預けて本を読んでいたはずなのに、いつの間にか寝ていたらしい。ぽんぽんと肩を叩かれて、眩しさに目をしばたたかせながらゆっくりと瞼を開くと、目の前には心配顔で俺を覗き込む次元の姿があった。
「おい、ルパン」
「……んー?」
寝惚け声を返すが、一瞬、自分がどこに居るのか分からなくなって混乱する。
明るい日差しの差し込む窓辺。少し開いた窓から吹き込んでくる風は海の香り。高い天井と広い部屋の中に並ぶ品の良い調度品を見て、そこでようやく先ほどまでの光景が全部夢だったということに気付いた。ここは南フランスのルパン家の別荘だし、季節ははまだ夏。身を切るように冷たい風の吹く寒い真冬のイタリアではないし、目の前の次元はさっきまでとは違い少し歳をとったように見えた。そうだ。あれは全部俺の、過去の夢。
「…わり、寝てたみたいだな」
くああと欠伸交じりに返事をしてから猫みたいな伸びを一つ。その間に次元は、いつの間にか俺の手から滑り落ちていた本を床から拾い上げてテーブルに置いた。
「ちょっと魘されてた。大丈夫か?」
「ああ、大丈夫だ」
「飲めよ。すっきりするぞ」
すっと目の前に差し出されるグラス。縁にミントが添えられたそれはどうやらアイスティーらしい。受け取って一口啜ると紅茶の香りに交じって微かに甘い香りがした。
「ん、ラムと…レモン? 美味いな、これ」
「だろ」
次元は得意げに笑って俺の向かいのソファに座った。
「悪い夢でも見たのか」
「んー? お前と初めて出会った頃の夢見た」
冷えたグラスの表面を伝う雫を指先で拭いながら、一瞬どう答えたものか悩んで、しかしそう口にする。途端に、俺の目の前の次元はなんともいえない表情になった。哀しさと切なさと、そして懐かしさと。そんなものが複雑に入り混じった表情は、ほんの一瞬泣き出しそうな様にも見えた。
夢とは思えないくらいにリアルで、そして一部始終がはっきりした夢だった。
事実は俺の夢とさほど変わらない。次元は殺し屋を廃業し、今では俺と共に泥棒稼業の毎日だ。世間に顔向けできない裏稼業、警察に追われる身であることだってなんら変わりないが、それでも次元は変わった。相変わらず拘ることは人一倍拘る頑固だし、そのせいで喧嘩をすることだってあるけれど、昔のように感情を押し殺すこともなく俺の前ではリラックスした態度を見せるようになった。もちろん俺の相棒と呼ばれることを厭うこともなく、無闇に人を殺すこともない。あんなに他人と関わるのを拒んでいた癖に、不二子や五右ェ門とも仲良くやっている。
「今年も行くんだろ? 墓参り」
「ああ。そのつもりだ」
あれから何年経ったか忘れたが、次元は毎年欠かさずビアンカの墓参りをする。そういう義理堅さも相変わらずといえば相変わらず。
「ったく、お前は昔の知り合いが多いからな。そいつらの墓参り全部してたらそれだけで1年終わっちまうんじゃねぇのか?」
軽い調子で冗談を言えば、次元もつられて「ははっ」と小さく笑った。そのまま、なんとなく話題が途切れて沈黙が続く。窓から吹き込んだ風が、カーテンを揺らしていった。
「…なぁ、次元?」
少しぬるみ始めたグラスに口を付ける。なんだ? と目で答える次元に向かって静かに問うた。
「今でも…俺みたいな奴のことは嫌いか?」
「なんだ、突然」
思ってもいなかったことを聞いたらしい。次元はきょとんとした顔で俺を見遣り、訝しげに小さく首をかしげた。
「いや、始めの頃はそうやってよく言われたなぁと思って」
苦笑交じりに答えれば、次元も合点がいった様子で『ああ』と苦笑いしながら煙草に火を入れた。これも昔から変わらない、芳ばしく甘い煙が窓から吹き込む潮風と混じって俺の元に届く。
初めて言われた時もそれはそれは衝撃的な言葉だったが、相棒を組んでからもしばらくの間はそうやって言われてよく喧嘩をしたものだった。『いい加減にしろ俺はお前みたいな奴が大っ嫌いなんだよ!』と。
「そりゃお前さん、俺にどういう答えを期待してんだ?」
眉間に皺を寄せながら意地悪げな表情でくすくすと笑う次元に、俺も笑う。
「この際だ。正直に言ってくれていいんだぜ」
「…お喋りで調子が良くて、人の言うことをひとつも聞かない向こう見ずで、頭がいいのか悪いのかさっぱり分からなくって、おまけに女と見れば見境なく寄ってって毎回毎回騙されてるような学習能力のない軽薄野郎なんか大っ嫌いだね」
煙草の煙を吐き出すのと一緒に一気呵成に言い切られた。
「いくらなんでもそりゃないんじゃないのぉー?」
予想していた以上に酷い答えが返ってきたものだから、俺はがっくりと肩を落とす。
「俺様のハートは回復不能な位にべっこべこにへこんだんですけど」
「お前が言えっていったんだろうが。っつーかお前のハートはガラス製じゃなくて装甲車並みの鋼鉄製だろ。マグナムどころじゃ歯も立たねぇ」
「酷ぇ言いようだな」
顔をしかめて睨んでやるが、次元はどこ吹く風の涼しい顔。
「でもなぁ」
だが次元はそこでふっと言葉を切り、そして俺を見詰めるとにやりと悪戯っぽく笑った。
「でも、それがお前だろう?」
あの時俺は、心を閉ざし手世界を拒絶しようとするお前を救いたいと思った。だが、時々思うのだ。俺は救いたかったのではない、救われたかったのではないかと。
俺がお前に対して抱いている感情は、多分世界中の誰にも理解されることはないだろう。友情だとか、恋だとか、愛だとか。どんな言葉もこの感情を表現するには足りなさ過ぎる。この狂おしい感情に名前を付けてしまったら、きっとそれは石ころのように単純でありふれたものに変わり果ててしまうだろう。永遠に誰にも理解されず、誰とも共有できないこの感情。だがそれは俺の中で確実に、そして何よりも大きく存在している。
それは、初めて出会ったあの日から変わらない。
野生の獣のような殺気のその下に隠された、死神の仮面の下に隠されたお前の姿に俺は気がついた。そして、俺と同じ匂いを纏ったお前に誰よりも何よりも惹かれたのだ。
人は誰しも仮面を被って孤独に生きている。お前が死神という仮面を被っていたのと同じように、俺もまたルパンという仮面を被って生きなければならない運命を持っていた。それを不幸だとか投げ出したいと思ったことはない。俺はルパンであることに誇りを持っていたし、それは俺自身が望んだことだ。それでも、時にほんの少しだけでいい、その下に隠された俺自身を曝け出したい衝動に駆られることがある。だが、そんなものは誰にだって見せられるものではない。葛藤に身もだえする日々。そんなときに、俺はお前に出会った。死神という仮面を被りその下にある優しい心をひた隠しにして生きていた、お前に。
俺はお前で、お前は俺だった。
俺たちは出会うべくして出会ったのだと思う。陳腐な言い方をすればこれは運命だったのだとさえ思う。神を信じない俺でも、これだけは感謝したいくらいだ。
「ルパン…?」
ぼんやりと物思いに耽っていた俺を怪訝な顔で次元が呼ぶ。
俺はそれには答えずに次元の口から咥えた煙草を抜き取り、何食わぬ顔でふかす。ペルメルの甘い香りに混じる微かなラム酒の香り。
「おい、返せよ」
「ヤだ」
即答。次元は呆れたように肩を竦め、改めて新しい煙草に火を点けた。
「なんだよ。お前、さっきからおかしいぞ?」
「そお? 気のせいデショ?」
暗い世界に身を置いて、好むと好まざるとに関わらずたくさんの人間を殺し、たくさんの人間に命を狙われ、誰も信じられず身も心もボロボロで、それでも愛するものを守ろうと独りで必死で牙を剥く、残忍なふりをした優しい狼。そんなお前を俺の傍に置けるならば。そして俺を想って生きてくれたならば。そのためならどんなことをしても構わないとさえ思ったんだ。
お前は今幸せか?
時に不安になることがある。俺は無理にお前の運命を捻じ曲げたのではないかと。俺の欲望の為にお前を不幸にしたのではないかと。
あれから随分時が経って、たくさんの出来事があって、たくさん喧嘩もして、それでもずっと相棒でいて、そしてまたいろんなことがあって、相棒だけじゃないもっと大切な存在になった。もうお前なしの俺なんて考えられないくらいに、お前は俺の一部。辛い過去を忘れることは出来なくても、俺と過ごす今が少しでも幸せだと思ってくれているか? 世界を拒絶しようなんて思ってないか?
「何考えてるか知らねえけどよ…俺は後悔してねえからな」
不意に次元がぼそりと呟き、それからもぞもぞと居心地悪そうに長い脚を組み替える。
「俺の居場所は…ここだけだ」
照れているのか。すぐにそっぽを向き『何言ってんだ俺』と呟く、何となく気まり悪そうな次元の横顔を俺は穴が開くほど見詰めていた。
「あーやっぱなし。今の、聞かなかったことに…」
眉をハの字に下げる次元言葉を皆まで聞かず、俺はその腕を掴んで抱き寄せていた。
「おいルパン」
少し焦ったような声で離せよと言う次元の声に答えてやる余裕もない程に俺は胸がいっぱいで、ただただその腕に力を込める。
泣きそうなほどに狂おしい程に俺はお前を愛しているよ。どうやったって陳腐で凡庸な言葉にしかならないけれど、時に仲間であり時に友であり時に家族でありそして時に恋人であるお前への感情を言葉にするなら、やっぱりそれが相応しい。こんな俺を信じて傷だらけの心を見せてくれたお前を。こんな俺が相棒と呼ぶのを許してくれたお前を。俺を相棒と呼んでくれるお前を。そんなお前に、俺は救われてるんだ。
「ルパン―――――――?」
俺の耳元で低い声が囁く。
「――――――――――」
少し涼しくなってきた風がカーテンを揺らす。傍らに在る気配と心地よい風に身を任せ、俺は静かに目を閉じた。
Fin.