俺にとって、その女は特別な存在だった。だがもし誰かに、『女を愛していたのか?』と問われたならば、俺はすぐに答えることは出来なかっただろう。確かに女は俺にとって特別な存在だったが、果たしてそこにあった感情が何なのか俺には分からないでいる。愛していなかったわけではないが、決して愛だけでなかったのも確か。何故なら。
俺が、女のたった一人の肉親を殺した男だったから。
もうずっと…ずっと昔の話だ。
一体いつ交代しているのかと訝しく思うぐらいに顔馴染みになった、いつもの門番にIDカードを投げつけた。
「おい、あんた…」
血の匂いをさせ左足を軽く引きずりながら歩く俺に視線を向け、門番は怪訝な顔を見せる。だが俺はその声には応えず視線も投げず、返されるカードを受け取ることすらもせずに屋敷の中へと踏み込んだ。
それでもすんなり俺を通したところを見ると、何も聞かされていないのかそれともあえて通すように言われているのか。どちらにせよ、無駄な労力を使わずに入れるならそれに越したことはない。ルパンの奴は俺がキレたと思ったらしいが、馬鹿みたいに突っ込んで、奴らにたどり着く前に死んだんじゃ話にならないことぐらいはちゃんと分かっている。
勝手知ったる屋敷の中を一直線にカルロのもとへ向かう。すれ違う奴らは俺の形相に何事かと目をむくが、それでも俺を止めようとはしなかった。
暗い部屋に立ち込めた生臭い血の匂い。倒れ伏した女の姿とその身体の上に乗せられた血に汚れたカード。ルパン三世参上の文字。数時間前の光景が目の前にちらつく。そして同時にその光景は記憶の底に封印したはずの記憶も蘇らせ、床に倒れ伏した姿が面影が、いつしか記憶の中のそれとすり替わっていく。
女は俺が自分の兄を殺したという事実を知らない。俺は卑怯にも正体を明かさずに女に近づいたのだ。俺自身の、贖罪の為に。
『金が要るんだ、次元。見逃してくれ…!』
男の末期の声を、俺は今でも忘れたことはない。
当時の俺は拳銃の握り方をようやく覚えたようなクソガキで、いくつか年上の男は俺を可愛がってくれた組織の兄貴分だった。
『妹がよ、バレエ学校に入りたいって言うんだ。俺は、あいつの夢を叶えてやりたいんだ』
組織の金に手を付けた男。一番の下っ端であり且つ男の弟分だった俺は、逃げた男を追う汚れ仕事を押し付けられる羽目になった。追いかけて追いかけて、追いつめた先で男はそんなことを言った。男に随分年の離れた妹がいることは知っていた。男が唯一の肉親である妹を目に入れても痛くないほどに可愛がっていたことも。
『頼むよ、次元…!』
幻聴を振り払うかのように頭を振り、俺は目の前に立ちはだかる扉に手をかけた。
「こんな時間に何の用だ? 次元」
勢いよく開け放った扉。間接照明の薄暗い部屋の中に佇むルチオが平然とした口調で問う。俺は、革張りのソファに悠然と座るカルロに構えたマグナムの銃口を向け、部屋のドアを閉めた。柔らかい絨毯を痛む足で踏みしめ間合いを詰める。
「…自分の胸に聞くんだな」
すぐにでも引き金を引かんばかりの怒りに身を任せていたはずなのに、口から出た言葉は自分でも驚くほどに冷静だった。
「誰に何を吹き込まれたかは知らんが…」
銃を下ろせ。カルロはマグナムに狙われているというのに顔色一つ変えず、呆れたような声で嗤った。咥えた葉巻から立ち上る煙の癖のある匂いが鼻につく。
「…何故、」
女を殺した。俺はカルロの言葉を無視し、マグナムの銃口をまっすぐに向けたまま冷たい声でそう問うた。
「何のことだ?」
「とぼけるな!!」
ルパンを消したいのならば一言俺にそう命じればよかっただけ。
「女を殺す必要などどこにもなかったはずだ!」
ビアンカも、そして、他の女たちも。殺される必要などどこにもなかった。そう叫ぶ俺に。
「…命じただけでお前にルパンが殺れたのか?」
ルチオが、冷笑を浴びせかける。その言葉にざあっと血が逆流するような感覚に陥った。
『お前にアランが殺れるか?』
記憶の底に封じた声が、かぶせたはずのひびだらけの蓋の隙間から溢れ出してくる。
アランが組織の金に手を付けて逃げた。そう俺に告げたボスはさらに冷やかな声で続けた。
『お前にアランが殺れるのか?』
その問いは殺せという命令の裏返し。浮浪児だったお前を拾ったのは誰だ? 飯を食わせ、寝るところを与えたのは誰だ? 武器を与えその使い方を教えたのは誰だ? この世界を生き延びる為の術を与えたのは誰だ? 冷たい視線が俺を射る。
飼われた身である俺に、拒否権など始めからなかった。
「お前がルパンを殺りやすくなるよう手伝ってやっただけのことだ。それでも殺れなかったんだからな。死神の名が聞いて呆れるぞ」
カルロの声が俺のずたずたになった神経をさらに逆撫でする。
「殺れなかったんじゃない。殺る必要がなかっただけさ」
掠れた声で嘯いた。ルパンが女を殺したわけではないのだから、ある意味では本当だが。
『本気じゃなかったからな』
そう言って笑った男の顔がふと過ぎる。本気だった。俺は本気で奴を殺そうとしていた。でもできなかった。それをあいつは気付いていた。
ルパン三世。つくづくおかしな男だ。そこでようやく気付く。あの男はどこかアランに似ているのだ。明るくて調子が良くて剽軽で人懐こくて女たらしで、そして、俺のことを気軽に相棒と呼ぶ、そんなところも。そう気づいて、苦いものが広がっていくのを感じる。
「どうせ殺れなかったんならお前がルパンに殺されればよかったんだ。なぁ、死神さんよお?」
ルチオの嘲笑が俺の理性を引きちぎっていく。お前に、お前たちに何がわかる!! そう叫び出したい衝動を抱えながら、だがどこかにそんな自分を冷めた目で見ている俺もいた。ああ、ルチオの言う通り俺が死ねばよかったのだ。どうせならばアランの代わりに、あの時に。
『見逃してくれ次元!』
俺はアランを逃がすつもりだったがそれはできなかった。ボスは俺にお目付け役をつけていた。暗い陰気な目をした痩せぎすの男は、組織に金で雇われた殺し屋だった。
『アランを殺すか? それとも、奴と一緒に俺に殺されるか?』
選べ。三度の飯よりも人殺しが好きだというその狂気の男は、嗤いながら俺に問うた。俺は選ぶことなどできなかった。いや、選択肢など最初からありはしない。たとえ俺がアランを殺したところで、殺し屋は俺を殺すだろう。ボスはアランと一番仲の良かった俺のことなど何一つ信用していない。だからこそ俺に追跡を命じ、殺し屋を同行させたのだ。
フラッシュバックしてくる光景を振り払うようにマグナムを握りしめる手に力を込めた。
「もう一度だけチャンスをやろう。次元」
咥えていた葉巻を灰皿に押し付け、カルロが嗤う。その厭味たらしい声に吐き気がした。その口が与えるのは選択肢の姿を借りた命令だ。俺に選択肢などない。
「ルパンを殺せ」
「断る」
答えた瞬間カルロはその太い眉を跳ね上げた。
「雇い主に歯向かうのか?」
「女を殺したお前に、従う義理はねえ!」
叫び、迷うことなく引き金を引いた。放たれた銃弾は一直線にカルロへと向かう。だが、その数十センチ手前で突然、見えない壁にでもぶち当たったかのようにして弾き返された。
「っ…! 防弾ガラスだと!?」
「何の策もなしにお前をここへ入れると思うか?」
薄暗い間接照明もそれに気づかせないための策だったのだろう。舌打ちする俺を嘲笑うルチオがパチンと指を鳴らした。同時に部屋へ雪崩れ込んできた部下たちによって、俺は殴られマグナムを取り上げられて床に押さえつけられる。倒れ込んだ拍子に脱げた帽子が緩く転がって行くのが視界の隅で見えた。なんとか自由を得ようと足掻くが、後ろ手を取られ3人がかりで背中を押さえつけられては身動きどころか呼吸さえももままならない。
「無様だよなぁ、死神。いや、もはや野良犬と呼ぶべきかな?」
音もなく開いた防弾ガラスの壁の向こうから歩み寄ったルチオが、憐れみの表情を浮かべて俺の脇に立つ。次の瞬間、高級そうな革靴が俺の怪我をした左足を無造作に踏みつけた。体重をかけられ、止まりかけていた血がまた流れ出す感触。鋭い痛みに悲鳴を上げると、今度は固いつま先が暴れる俺の鳩尾にめり込んだ。
「が…はッ」
一瞬息が止まった。空っぽの胃が踊っても吐き出すものすら何もない。情けない悲鳴と共に溢れた胃酸は喉を焼いて零れ、絨毯を汚していく。
「…殺せよ、俺を。それが端からお前らの目的だろう?」
肩で息をしながら、ギリリと噛みしめた歯の奥から呻いた。
「そうだ。お前はいずれ組織の邪魔になる」
睨みあげた先でルチオは嗤う。野良犬は決して人に懐かず、尻尾を振ることはない。金の為己の命の為、状況次第では裏切りさえも厭わない、そんな野良犬は飼いならすよりも殺すことの方がはるかに容易い。
「お前を殺るのはもっと手間かと思ってたんだがな。だからこそルパンと相打ちにさせようかと思ったんだが…女が絡むと死神もただの雄犬だな。これなら俺でも殺れるぜ」
最初からお前のことは気に食わなかったんだ。野良犬風情が偉そうな顔しやがって。俺を見下ろし毒づくルチオの足に、せめてもの抵抗で唾を吐きかけてやった。
「貴様!」
逆上したルチオに今度は顔を蹴られた。切れた額から流れ落ちる血で視界が霞み、世界が回る。薄れかけた意識の中で悲痛な声が蘇る。
『助けてくれ!』
俺はあの時、選びようのない選択肢を間違えたのだ。
命乞いをする友を目の前にして引き金を引けずにいる俺を見かねた殺し屋は、銃を握りしめた俺の手の上から銃を握りこみ無理矢理に引き金を引かせた。死んでも忘れない。俺の手の中から放たれた銃弾で、スローモーションのように倒れ込んでいくアランの姿は。耳元でよくやったと嗤う殺し屋の声が、ひびの入った俺の心を粉々に砕いた。振り向きざまに俺は自分の意志で引き金を引く。驚いたような顔で俺を見下ろし、黒い痩せぎすの殺し屋は呆然とした表情で崩れ落ちていった。
そして俺は、飼われることを嫌う野良犬になり、感情なく引き金を引くだけの死神になった。
裏切った組織から逃げるために、傭兵部隊に転がり込んだ。そこで射撃の腕や喧嘩の仕方や銃火器の知識や、おおよそ裏社会で生き延びる為に必要なありとあらゆる技術を身につけた。そして、ほとぼりが冷めて除隊した後は殺し屋や用心棒といった汚れ仕事金回りのいい仕事ばかりを選び、貯めた金は全てアランの妹――ビアンカへと送った。アランの代わりにビアンカの夢を叶えさせること、それが俺に出来るせめてもの償いだと信じて。それがこれから俺が生きる意味なのだと信じて。
「殺せ…」
掠れた声で呻いた。今やビアンカを失った俺に生きる意味など何もないし、仇討すらろくにできない殺し屋に存在価値などない。
「それがお前の望みなら」
床に転がった俺のマグナムを拾い上げたルチオ。その銃口が自分に向けられるのを、俺は他人事のように見上げていた。
俺は彼女に近づくべきではなかった。最初は夢を叶えた彼女の晴れ舞台を見に行くだけのつもりだったのだ。だが俺は声をかけてしまった。ステージの上で軽やかに舞い微笑む姿に惹かれて。兄の古い友人だったのだと、嘘ではないが真実でもない言葉を吐いて。
俺が殺したのだ。何も知らない彼女を。アランを。そしてたくさんの人間を。ならば。
「死ねよ、野良犬」
ここでこうして死ぬのも自業自得だ。
女を愛していたのか? そう聞かれたならば俺はなんと答えよう。ああ、確かに俺はビアンカを愛していた。贖罪という邪まな感情で近づいた俺は、だがいつしか彼女の笑顔に惹かれ、その笑顔に救われるようになっていた。俺は心の底から彼女を愛していた。この笑顔を守るためならば俺はなんでも出来る。いや、やらなければならないのだと、そう誓っていたはずなのに。どうしてこうなってしまったのだ。
マグナムの引き金にかかったルチオの指に力が入る。俺はゆっくりと目を閉じた。
何もかもよくある話だ。そんな不幸はこの世の中には掃いて捨てるほど転がっている。親の顔もろくに憶えていないとか、拾ってくれた奴が悪党だったとか、自分の命と天秤にかけて友達を殺したとか、愛した女を殺されたとか。そんなことは、何一つ特別なことではなくどこにでも転がった話。誰を恨んだところで仕方ない。そう分かっていても、俺は“もし”を考えずにはいられない。もしあの時、引き金を引かなかったならと。今更悔やんだところで何一つ変わらないのに。
耳元で撃鉄の上がる音。そして続けざまに、一発の銃声が轟いた。
だが。
撃たれたのは俺ではなかった。
驚いて目を開ければ、目の前ではルチオがマグナムを取り落し血まみれになった腕を抑えて呻いている。唖然とする俺のすぐそばでまたも立て続けに銃声が響き、そして、今度は俺を抑え込んでいた男たちが次々に床へと倒れ込んだ。男たちの身体から噴き出した血が俺を汚していく。
「貴様! 何をする!!」
カルロが気色ばんでソファから立ち上がる。そのカルロに対峙するように俺の真横に立ったのは、さっきまで俺を押さえつけていたうちの1人とおぼしきダークスーツの男だった。
「返してもらいに来たぜ。いろいろとな」
だが、カルロの怒声を掻き消す、その静かな声には聞き覚えがある。驚く俺たちを前に、鮮やかな手つきで仮面を引き裂き変装を解いた男は。
「ルパン!」
「…大丈夫か?」
ルパンは倒れ込んだままの俺に手を差し伸べて助け起こし、ルチオが取り落したままだったマグナムを拾い俺に手渡す。
「お前…なんで…」
「なあに。俺も“ルパン”のプライドを傷つけられたんじゃ黙ってるわけにはいかねえのさ」
「おい! おい誰か…誰かいないのか!!」
予想もしていなかったのだろうこの展開に慌て始めたのはカルロで、部屋の中の部下たちが使い物にならないと見て取ると内線の受話器を取り上げて叫ぶが、どうやら不通だったらしくすぐに舌打ちをしながら受話器を叩きつけた。
「無駄だぜ? お前さんの部下たちは“みんな”俺が始末したからな」
慌てふためくカルロを見遣り、楽しそうににいいいっと口角を釣り上げるルパン。
その笑みに、俺は背筋が凍るような恐怖を感じていた。夜中とはいえ常時数十人は待機しているこの屋敷の中の部下ども全員を始末したというのか? そして俺はじいさんの言葉を思い出す。
『…『なぜ殺した』とお前に聞いた男が、同時に『どうして殺さなかった』とも問える男だということさ』
腑に落ちるとはこのことだろう。これが、じいさんの言うルパンの“もう一つの顔”なのだ。あまりに格が違いすぎる。この男はカルロ程度の男が手を出していい男ではない。この男は。
ルパン三世。ルパンの名を継ぐ男。世界一の名を与えられるにふさわしい男だ。
ルパンの言葉に蒼白になったカルロは必死に防弾ガラスの壁を作動させようとしているが、それもルパンが細工をしたのだろう。一向に閉まる気配はない。
「無駄無駄。この屋敷のセキュリティも全部破壊したしな」
誰もあんたを助けになんか来やしねえよ。そう告げるルパンは心底楽しそうだ。一見して子どものような無邪気な笑顔には、間違いなく狂気が宿っていた。弧を描く口元とは対照的に、真っ黒な瞳は氷のように冴え冴えとしている。銃を掲げるわけでもない。ただ悠然と立つだけの男に、この部屋にいるすべての人間が恐怖を感じている。ごくりと鳴った喉の音は俺のものか、それともカルロのものか。
「随分と俺を馬鹿にしてくれたなあ? カルロ」
名前を呼ばれ、カルロがびくりと身を震わせた。
「大人しくしてればお前の仕事を邪魔するつもりもなかったんだがなぁ。俺を敵に回すとどうなるか…身を持って知るといいさ」
俺を怒らせた罪は重いぜ? にいいっと更に口角を釣り上げる。ああ、悪魔が笑ったと、俺はそう思った。これまで出会ってきたどんな殺し屋よりも悪党よりも恐ろしい。だが俺は、その姿から目が離せずにいた。
「た…助けてくれ…俺が悪かった……もう、金輪際あんたには関わらない…」
だから、命だけは。無様に命乞いをする男を、仮面の笑みを口元に張り付け、氷のような冷たい目でルパンは見下ろす。
「それを決めるのは俺じゃねえさ」
そこで言葉を切り、冷たい大きな瞳をつっと俺の方へと向ける。
「…次元。お前だ」
低い声に名前を呼ばれ、びくりと身を固くした。全身から冷や汗が噴き出す。俺に選べというのか。大切な女も満足に守れなかった野良犬の俺に。握りしめたマグナムのグリップは血と汗で滑る。
「さあ、どうする?」
淡々としたその声。俺はしばらく逡巡したのちに弾倉に残った弾を確認して、ゆっくりと銃口を引き上げた。
「や、止めてくれ…」
仕立てのいいスーツを汚し引きつった顔で命乞いをするカルロはこの上なく見苦しい。こんな男の愚かで姑息な策略の為にビアンカは殺された。今の自分と同じように命乞いをしただろう女たちを、ビアンカを、虫けらのように殺させた。
使い慣れたはずの銃が何故か酷く重く感じた。俺は小さく息をついて照準を合わせ、ゆっくりと引き金に指をかける。
「止めてくれ!!」
そのカルロの悲鳴をかき消すように、マグナムの乾いた銃声が響いた。
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