じいさんの用意してくれたアパートは外見こそ古びていたが暖房はきちんとしたものが取り付けられていてとても快適で、だから、俺は暫く雪が降っていることに気付いてはいなかった。カーテンを閉めようと近寄った窓の向こうにちらつくものを見つけて、その白い結晶が薄らと道に降り積もっていくのをぼんやりと眺めながら、俺は煙草の煙と共に深い溜息を吐き出した。



7. side-LUPIN





 深く深く溜息をつきたくなるほどに、状況はあまり良くなかった。
 俺がじいさんに匿われてからも俺の名を騙った殺しは起こっていて、昨日はついに5人目の被害者が出た。いずれも若い女性だが、被害者同士には年齢も職業も住所も何一つ共通点がない。唯一の証拠品であるカードを頼りに、警察は血眼になって俺を探しているらしい。たとえ俺を見つけたとしても何一つ事件は解決しないというのに。そんな警察の動きも俺の溜息の一因。
 状況に進展はないが俺を陥れる輩に心当たりがない訳ではなかった。若造の俺にでかい顔をされて困るのは古参の同業者だろう。恐らくはこの街を根城にする組織の仕業。だが決定的な証拠はない。別行動で情報を集めているじいさんも大した情報は手に入れられていないようだ。
 ここでこうやって腐っていたって仕方ない。そんなことは分かっていたがいくら俺が名の知れた泥棒で盗めないものは何もないと豪語してみても、所詮は独り。人数で嵩にかかられては物理的に無理はあるのだ。今のままでは乗り込んだところでみすみす命をドブに捨てるようなもの。作戦が必要だった。そのためには相手の情報がいる。今はまだ動けない。
 だが俺はそろそろ限界を感じ始めていた。もとより一方的にやられて大人しくしていられる性質ではない。陥れられた怒りではらわたは煮えくり返っているのだ。やり場のない苛立ちを溜息に変え、俺は簡素なベッドに倒れ込んだ。
 突然、しんとした部屋に携帯の音が鳴り響いた。表示されたじいさんの名前を確認してから通話ボタンを押す。

「俺だ」
『今すぐ逃げろ!』

 途端に耳元で怒鳴られた。酷く切羽詰まった声といつにないその勢いに俺は少々鼻白む。

「…なんだいきなり…何があった?」
『訳を話してる暇はねえんだ! とにかく今すぐ街から出ろ!』

 問いへの答えはなく、一方的にそれだけを告げると通話は切られてしまった。

「…なんなんだ一体」

 強制終了された通話。何事もなかったかのように待ち受け画面へと戻ったディスプレイを見下ろして、呆然と呟いたその時。
 部屋の外に強烈な殺気を感じた。身体中の皮膚が一瞬にして鳥肌を立て、全神経が張りつめて薄いドアを隔てた外へと集中する。
 俺は携帯を上着のポケットにねじ込み、部屋の電気を消す。訪れた暗闇の中、ショルダーホルスターから拳銃を引き抜くと咄嗟にソファの陰へと身を隠した。

(1人…? ということはサツじゃねぇな)

 敵はどうやら1人のようだった。警察ならば1人で乗り込んでくるような無謀なことはするはずがなかったし、何よりこの息苦しいまでの圧迫感と殺気は一般人ではありえない。敵は間違いなく裏の人間。

(俺と分かっての襲撃か…それとも…?)

 握りしめたワルサーの安全装置を外してじっと身を潜める。暖房で心地よいはずの部屋の中、こめかみをつうっと冷たい汗が伝うのがわかった。恐怖を感じているのだ。この俺が。無意識に浅くなった呼吸。息苦しさを紛らわすかのように飲み込む唾にゴクリと喉が鳴った。
 たかだか数十秒の時間が、数時間にも感じられる。
 先に動いたのは襲撃者だった。
 静寂を切り裂いて銃声が一発。どうやら部屋の鍵を壊したらしい。ほぼ同時に蹴り込まれたドアが、壁にぶつかってけたたましい音を立てる。足音もなく部屋に躍り込んでくる黒い人影。俺はソファの陰から滑り出るとその人影の後ろへ回り込む。だが影の方も俺の動きに俊敏に反応し、振り向き様に後ろへ飛び俺との距離をあけて銃口を向けた。互いに銃口を突き付け合い、暗い部屋の中で対峙する。外から差し込むぼんやりとした街灯の光に照らされたのは、俺が思いもしなかった男だった。

「…次元…大介!!」

 死神と呼ばれる男。闇と見紛う黒い姿が、殺気だけを纏ってそこに居た。掌の中のマグナム、その銃口は寸分の狂いもなくぴたりと俺の眉間へむけられている。

「…どういう風の吹き回しだ?」

 内心の緊張を悟られぬよう、無理矢理にやりと唇を歪めて問うた。また、こめかみを冷や汗が伝う。余裕ぶってみるが、頭の中は混乱しきっていた。なぜ次元が俺を襲う? 俺を消せと誰かに雇われたのか? 可能性だけを考えればそれが一番だ。だがその疑問を素直に口にすれば、次元は外を舞う雪よりも冷たいだろう声で『違う』と答えた。声の振動で僅かに動く空気にさえ神経が過敏に反応する。

「これは、俺の、意思だ」

 淡々と告げる声はあの時と同じ。殺しが俺の仕事だと答えたあの時と同じ、感情の欠片もない冷淡な声。
 次元の意思。誰に雇われたのでもなく命令されたのでもなく、己自身の意思で俺を殺しに来たというのか。一体何故。分からず、再び問えば。

「自分の胸に聞け」

 吐き捨てられた言葉。帽子の下からちらりと覗いた黒い瞳には紛れもない、俺に対する憎悪の色が浮かんでいた。ぞっと背筋に悪寒が走る。この男になら俺が殺れる。その実力を知っているからこそ、その刹那本能的な恐怖が俺を襲う。
 引き金が引かれる瞬間に身をよじり、薄い床を蹴って俺は躊躇なくカーテンの引かれた窓へと飛び込んだ。ここは2階だ。飛び降りたところで死にはしない。派手にガラスの割れる音が辺りへ響く。破片で切ったのか、頬にじんとした痛みが広がった。

「待て! ルパン!!」

 地面に降り立った俺に向けられた次元の怒声。立て続けに数発の銃声が響く。降り注ぐ銃弾を辛うじて避けながら、俺は死角になる通りに滑り込んだ。それに続いてパトカーの音がこちらへ向かってくるのも聞こえてくる。おそらく銃声を聞きつけた近所の住民が警察を呼んだのだろう。このまま街中で銃撃戦を続けるわけにはいかない。視界の隅で黒い影が飛び降りてくるのを見ながら、俺は少しでも人のいないところ、街のはずれに向かって走り出していた。今はただ逃げるよりほかはない。
 何故次元が俺を。雪道に足を取られ走りながら考える。
 次元は俺に『自分の胸に聞け』と言った。だがもちろん俺に心当たりはない。次元が俺のことを例の一件以来快く思ってはいないというのは分かっているが、だからと言って当然殺されるほどのものであるわけもない。
 ならば可能性は。

(次元は何か勘違いをしている…?)

 そうとしか思えない。俺を殺さねばならぬと思い詰めるほどの何かが、次元の身に起きたのだ。

(何があったって言うんだ、一体!)

 走り続けるうち川べりの空地へと出た。周りは住宅街だが、夜中ということもあってか人の気配はない。どこへ逃げる。僅かに迷ったその瞬間に銃弾が俺を襲った。

「!!」

 やはりマグナム弾の威力はワルサーの比ではない。俺は着弾の衝撃で体勢を崩し冷たい地面に無様に転がった。右肩が熱い。
 追いついてきた次元の気配を感じぞわりと背筋が粟立った。自分でも信じたくないほど、俺は恐怖を感じていた。

「覚悟はできたか?」

 僅かに荒い息をつきながらも、その声は変わらず淡々と冷たい。がしゃんと手首を返してマグナムに弾を装填する音が聞こえた。

「…自分の胸に聞いてみたんだけっどもがよ、悪いが俺にはお前に命を狙われる覚えがねぇんだわ」

 立ち上がり応えた俺の目の前に1枚のカードが掲げられた。

『ルパン三世参上』

 どうやらそれは、話題の偽カード。なぜ次元がそれを持っているのだ。それによく見ればべったりとした赤褐色に汚れているではないか。血、だろうか。

「…ビアンカを殺したのはお前か?」
「何?」

 ビアンカ。その名前に、なぜか俺の脳裏には次元と連れだって歩いていたすらりと姿勢のいい女の姿が思い浮かんだ。

「まさか」

 言いながら、瞬時に事態を理解した。
 ビアンカが殺されたのだ。まだ報道されていない偽ルパンの6人目の被害者として。次元の持つカードはビアンカの殺害現場にあったものなのだ。そして次元は、犯人が俺だと思っている。

「落ち着けよ次元。俺はビアンカを殺してなんかいないぜ」

 事態が把握できたことで少し余裕が出たのか、自分でも驚くほどに落ち着いた声が出た。マグナムの銃口がこちらを向いているという事態は変わらないのに。

「じゃあこれはなんだ! お前じゃないならば何故こんなものが残ってるんだ!」

 だが次元の方は、俺の落ち着きとは逆に徐々に声を荒げていく。

「俺じゃない。それは俺のカードじゃねえんだ」
「黙れ! なら…ならなんでビアンカは死んだんだ!!!」

 次元は混乱していた。俺に向けられた銃口は震えている。次元がこんなにも感情を乱すところを見ることになるなんて。向けられた銃口の存在すらも忘れて、俺は驚きだけを持って次元を見詰める。これが、仮面の下に隠されたお前の本性なのか?

「なぁ、教えろよルパン。なんで、ビアンカは死んだ? お前じゃないって言うんなら、誰があいつを殺した!?」

 怒りと悲しみとが入り混じった声で半狂乱にも近く次元が叫んだ、その時。




 パアン!! と乾いた銃声が辺りに響いた。




 反射的に身をかがめた俺だったが、撃たれたのは俺ではなかった。

「次元!!」

 俺の目の前に佇んでいた黒い影がゆらりとよろめいた。宵闇の薄青い雪の上に、ぽたぽたと滴るものがある。俺は咄嗟に次元の腕を引くと、近くの橋の下へと逃げ込んだ。それを追うようにまたも、銃声。
 どこだ。
 橋脚の陰からあたりを覗うと、近くの建物の上に人影を見つけた。狙いを定めてワルサ―の引き金を引く。低い悲鳴と共に影が地面に落ちるのが見えた。

「おい、大丈夫か!?」

 他に敵がいないことを確認してからワルサ―をホルスターに戻し、俺は次元へと駆け寄った。

「…俺に、触るな」

 俺が伸ばした手を払い除け、次元は少し掠れた声で呻いた。ポケットから取り出したジッポーの火をつけると、足を抑えた次元の手は赤黒く染まっていた。

「…歩けるか?」
「かすり傷だ。だから、俺に触るな」

 苛立ったように答える次元。だがその顔色はあまりよくない。そしてさらにタイミング悪くまたもパトカーの音が近づいてきた。

「…一時休戦だ。ついてこいよ」

 とにかくお互いに傷の手当てをしなければ。尚も俺の手を拒む次元を警察官に見とがめられないためだからとなんとか説得し肩を貸す。白い息を吐いて薄く笑った俺に、次元は苦々しそうに舌打ちをした。
 遠目に何人も警察官がいるのが見えたが、こちらは街灯もろくにない闇夜の中を千鳥足で歩いているのだ。唯の酔っ払いにしか見えていないだろう。だが用心するに越したことはない。なるべく人気のない通りを選んで進み、尾行られていないことを確認しながら街のはずれにある小さな廃ビルへとたどり着いた。錆びた鉄階段を上りきった先にあるドアを小さくノックする。

「…誰だ」

 無人かと思われた建物の中から一呼吸おいて聞こえてくる声。

「俺だ」

 それに低く答えると、薄くドアが開いた。

「!」

 そっと顔を出したのは早耳のじいさん。俺と次元の顔を見比べて酷く驚いた顔をし、そしてそのあと酷く苦い顔になる。

「馬鹿もん…儂は逃げろと言ったんだぞ」
「文句もあんたの持ってる情報も全部後で聞く。とりあえず入れてくれ」

 じいさんは少し渋い顔をしたが、俺たちの纏った硝煙と血の匂いに気付いたようだ。無言のまま顎をしゃくって部屋の中へと促す。
 外からは窺い知れないほどに温かい部屋に足を踏み入れ、そこで自分が凍えていたことに気付く。血が通いだしたのか熱を持った傷口がじくじくと痛んだ。

「座れよ」

 入り口で立ち尽くす俺たちにそう告げ、じいさんは部屋の隅にあった粗末な棚から救急箱を取り出す。次元は少し躊躇ったようだったが黙ってそれに従い、無造作に並べられた古びた椅子に腰かける。

「ほら。見せてみろよ」
「…自分でやる」

 救急箱を受け取った俺は、次元の拒否の言葉を無視してズボンの裾を捲り上げた。痛みのせいか寒さのせいか僅かに身を震わせる。左の脹脛に抉れたような傷があった。かすり傷と言えるほど軽い傷ではないが、腱や骨に異常はなさそうだ。消毒をして抗生剤を塗り、きつめに包帯を巻いてとりあえずの応急処置を施す。次元は始終無言で、時折痛そうに顔をしかめながらもただじっと俺の手元だけを見ていた。

「…わからねぇ」

 包帯を巻き終えたところで、不意にぽつりと次元がつぶやいた。

「何が」
「お前を殺そうとした俺を、なんでお前は助ける」

 心底不思議そうに、そう問う。俺を見下ろす次元の顔からはもう憎悪は消えていた。

「…お前が本気じゃなかったからな」

 そう答えて、俺は笑った。次元は本気ではなかった。何故そんなことが俺に分かるかと言えば答えは簡単だ。今俺が生きているから。
 本気になれば俺を殺すことなど簡単だったはずだ。事実それだけの腕を持った男だし、何度もそのチャンスはあった。だが次元はそうしなかった。冷徹な憎悪と殺意を剥き出しにしていても俺にとどめを刺すことをしなかった。

「俺は本気だったさ」
「かもな。でも俺は生きてるし、今更俺を殺す気なんかないだろう?」

 その問いに答えなかった。黙りこくった次元の隣で、俺はジャケットとシャツを脱ぐ。外気に触れた肌に鳥肌が立った。明るいところで見てみれば俺の傷も大したことはない。死神のマグナムに狙われてこの程度ですんでいるのだから、やはり次元には俺を殺すつもりがなかったのだと思うよりほかはない。

「…何があった」

 俺たちのやり取りを傍らで見ていたじいさんが口を開く。

「それはこっちが聞きたいぜ、じいさん。あんた、俺に隠してることがあるだろう?」

 器用に片手で包帯を巻きながら、じろりと睨み付けた。じいさんは俺の問いには答えることなくすっと視線を逸らす。だがそれがもう俺の問いを肯定したようなものだ。

「この際隠し事はなしだぜ。俺を陥れたのは誰だ。言え」

 冷たい声で問えば、じいさんは小さくため息をつき、諦めたように口を開いた。

「…カルロ・ビアージとルチオ・ヴィンチ」

 予想はしていたのだ。俺のような奴に好き勝手をされて困る古参の組織。ビアージ一家がこのところ不穏な動きをしているのは知っていた。俺とすれば『やはりな』という感じだったのだが、次元の方はその名前を聞いた途端に弾かれたように顔を上げた。

「なん…だと?」

 驚きもするだろう。自分を利用したのが自分を雇った張本人だと聞かされたのだから。呆然とした顔で虚空を見詰めている。

「奴らは俺と次元の相打ちを狙った。そうだろう?」
「…そうだ」

 苦い声でじいさんが頷く。自分たちや組織の人間では俺に歯が立たないと思ったのだろう。そこで次元の腕を利用した。本来次元は奴らに雇われている立場なのだから、俺を消すだけならばこんな回りくどいことをしなくともただ命じればよかっただけなのだ。それをしなかったということは、次元もまた奴らにとっては目の上のたんこぶとなっていたということだ。俺と次元。運が良ければ2人を同時に始末出来たし、最悪どちらかが生き残ったとしても1人だけなら始末する手間も半減するというもの。 いかにも小者の考えそうなことだ。殺された女たちは俺を追い込むためだけに利用されたのだ。そしてビアンカも。次元の怒りの矛先を俺に向けるためだけに利用されたのだ。
 吐き気がした。自分の手を汚そうとしないその性根にも、何のかかわりもない一般人を巻き込み命までをも奪うその行動にも、俺は血が沸騰するほどの怒りを覚えていた。だが実際に大事な人間を奪われたものの怒りはもっと強かった。

「畜生…!」

 呆然としていた次元だったがようやく事態を理解したらしい。猛然と立ち上がると怒りに任せて傷んだ足で椅子を蹴倒し、血を吐くような慟哭を放ち、俺たちが止める間もなく部屋を飛び出していく。

「待て! 次元!!」

 いくらカルロが小者でも、怒りに我を忘れたまま独りきりで突っ込んで行って敵う相手ではない。だがその背中を追いかけようとした俺をじいさんの手が引き留めた。

「離せよじいさん!!」
「落ち着けルパン。あいつは死ぬつもりだぞ! お前まで無謀に巻き添えを食うつもりか!?」
「んなことは分かってる!」

 俺をなだめようとする手を振り払い、叫ぶ。そんなことは分かっている。次元は自分が死んででも仇を打つつもりでいるのだ。だからこそ独りで行かせるわけにはいかなかった。

「俺にはあいつが必要なんだ!!」

 そう、叫んでいた。
 俺には次元が必要なのだ。誰が何と言おうと俺の相棒は次元しかいない。何があろうと今死なせるわけにはいかない。

「…そうか」

 俺が本気だと悟ったのだろう。じいさんは俺の腕を離しゆっくりとこう告げた。

「…儂の知っていることを全部話す。教えてやるよルパン。何故あの男が死神と呼ばれるのか、死神と呼ばれるようになったのか、その理由を」

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