ふらりと立ち寄った場末のバーは、酒場が賑わうには少し早い時間だからなのかそれともうらぶれた様子の店構えのせいなのかわからないが、酷く閑散としていた。
 カウンターに陣取る俺の他には、年配の男性二人組が店の奥に居るのと中年の男が一人入り口に程近い席にいるだけ。赤ら顔の店主も暇そうにカウンターの奥で音量を落とした小さなポータブルテレビを眺めている。基本的には酒の味さえよければ他にこだわりのない俺だが、この閑散とした静けさは気に入った。酒は好きだが酒の席の喧騒は嫌いなのだ。最初に頼んだスコッチウイスキーの味も悪くはなかったから、次は瓶で頼んでみることにする。
 今日もまた、浴びるように飲んで正体をなくして眠りにつくのだ。いつものように。




6. side-JIGEN





 店内に流れるBGMはクールジャズ。店主の趣味なのだろうか、選曲は悪くない。心地よいジャズの音色に耳を傾けつつ手酌で独り黙々と飲んでいると、カランとドアに下げられたベルが鳴ったのが聞こえた。

「らっしゃい」

 客を迎える店主の不愛想な声。俺は入ってきた人間に特に注意も向けずにいたのだが、カウンターに向かって歩み寄ってきたその気配はぴたりと俺の隣で歩みを止めた。

「隣、いいか?」

 俺に向かってかけられたのだろう声には聞き覚えがある。帽子の下からじろりと視線を上げるとそこに居たのは情報屋のじいさん。ルパンの仕事を俺にしつこく依頼してきたあいつだ。そう問うが早いが、俺が口を開く前にさっさとカウンターの隣の席に陣取るではないか。

「…席ならいくらでも空いてるだろうが。俺は一人で飲みたいんだ」

 あんたとは飲みたくない。言外にそんな不機嫌さを滲ませ言うと、

「まあそう言わずに少しだけ付き合え。聞きたいことがあってお前さんを探してたんだ」

 じいさんはそう言って笑い、注文を聞きに来た店主に『同じものをくれ』と告げた。

「俺を?」

 口まで運びかけていたグラスをテーブルに戻し、俺はじいさんに怪訝な顔を向けて見せる。情報屋に追いかけまわされるような重要な情報を持っている覚えはない。

「そうだ」

 じいさんは小さく頷き、ポケットから取り出した煙草に火を点ける。ふわりと立ち上る煙。俺もつられるようにして煙草を取り出すと、無言でライターを差し出されたから遠慮なくそれで火を点けた。その間にもじいさんが俺に聞きたいことというのを考えてみるが、全く見当がつかない。
 その間にもじいさんはうまそうに煙を燻らせるだけで、なかなか話を切り出そうとする気配がない。

「何が聞きたいんだ」

 さっさと話を済ませて一人になりい俺が少々苛ついた声で水を向けると、グラスを傾けじいさんはようやく口を開いた。

「お前さん、今はビアージのところに居るんだったな」

 思いもしなかったアプローチに少々面食らった。てっきり先日のルパンとの仕事の話でもされるのかと思っていたのだが。

「ああ、そうだ」
「…何か最近変わったことはねえか?」

 少し辺りを窺ってから声を潜めてそう問う。他の客の席とは距離があるし、カウンターの中の店主はこちらのことなど全く気にもしていないようでテレビの画面に釘付けだ。
 そんなに聞かれるとマズい話なのだろうか。思わず俺もつられるようにして声を潜める。

「例えば?」
「例えばどこかの組織と敵対してるとか、変わった取引があるとかそんなきな臭い話だ」

 本当になんでもいいんだ。そう言うじいさんの問いは酷く漠然としていて雲を掴むような話に聞こえる。そんなことを聞いてどうしようというのだろうか。怪訝に思うが状況はそれ以前の問題で、俺はじいさんの喜ぶような情報は何一つ持っていないのだ。思ってもいなかった問いに俺は煙草の端を噛んで答えあぐねた。

「…あのなあ、俺はボス・カルロの個人的な用心棒だぞ。ビアージ一家がどんなヤバいことに手をだしてるかなんて、そんな組織の内情なんかが俺のとこまで流れてくるはずねえだろ」

 俺はあくまでカルロの用心棒であって、組織の用心棒ではない。組織が何を企んでいようが俺に情報が流れるはずはない。それに。

「それに、もし万が一知ってたとしても情報屋なんかに情報を簡単に流せるわけがねえだろうが。あんたがどう思ってるか知らねえがこの仕事は信用が第一なんだ」

 組織内部の情報を流したのがばれれば、裏切者として始末されても文句は言えない。マフィアという連中はとにかく裏切りに厳しい組織でもある。用心棒という稼業は案外クチコミで成り立っているので、雇われている間の素行如何で次の仕事へ渡った時の待遇が変わることもあるのだ。自分で自分の悪い噂を立てるようなことはできるわけがない。

「ま、カルロの最近の情報といえば新しい女ができたことぐれぇかな。女に会いに行くのに毎晩お供を仰せつかるもんだから眠くて仕方ねぇ」

 流せる情報なんかその程度だ。俺がそう言って肩を竦めると、じいさんはわっはっはっはと大声で笑った。その声に驚いたのか店主がちらりとこちらに視線を寄越すが、すぐに興味を失ったらしくまたテレビ画面へと視線を戻す。

「それぐらいで勘弁しろよ。あんたも仕事なのはわかるけどよ」
「そりゃあそうだ。儂だってお前さんから組織の情報が引き出せるなんて思っちゃいなかったしな。まあ一応聞いてみただけだ」

 俺が渋って見せると、拍子抜けするぐらいにあっさりと引き下がるではないか。あまりに簡単に引くからこちらが不安になるほどだ。

「…何かあったのか?」

 組織が何か企んでいるというのだろうか。ほとんど部外者と言ってもいい俺に、情報が流れていないだろうことを知りつつもわざわざ接触してくるあたり事が重大である可能性がある。

「まあちょっと気になることがあってな」

 だがじいさんは俺の問いには言葉を濁した。そして、それでも食い下がろうとした俺に口を開かせる前に『ところで話は変わるがな』と、強引に話題を変えた。

「ルパンがまたお前さんと仕事がしたいって言ってたぞ」

 その名前をじいさんの口から聞いた途端に、俺はずんっと鉛でも飲まされたかのように胃が重くなるのを感じた。無意識のうちに握りしめたグラス。表面を流れ落ちる冷たい水滴の感触に少しだけ冷静になる。

「…俺は二度とごめんだ。奴にもそう言ったはずだがな」

 聞いてねえか。そう問うと、じいさんは『聞いたよ』と答えた。グラスを空にし、それからごま塩色の口髭の下で苦笑する。

「ま、お前さんが断らなくてもあいつは今次の仕事どころじゃねえがな」
「…ああ」

 じいさんの言わんとすることはすぐにわかった。ルパンが第一級の殺人容疑で指名手配されているのは知っている。朝から晩まで新聞でもニュースでもその話題で持ち切りなのだから嫌でも目に入るというもの。それにしても連続強盗殺人とは穏やかではない。だが。

「…あれはあいつじゃねえさ」

 冤罪だろ。煙草の端を噛みしめて俺がそう言うと、思ってもいなかった言葉だったのか、じいさんは酷く驚いたような顔で俺を見てくる。

「なんでそう思う? 世間の大多数はあいつが犯人だと疑ってないんだぞ?」
「あいつは、仕事の邪魔になった警備員を殺した俺に『なんで殺した』って聞いたんだぞ。“死神”のこの俺に、だ」

 愚問もいいところではないか。じいさんが情報を探るのと同じように、俺は人を殺すのが仕事なのだから。空になったじいさんのグラスに酒を注ぎながらそう言うと、じいさんは『そうさなあ』と相槌を打ちグラスを傾ける。

「そんな阿呆が、素人の女を何人も殺せるわけがねえだろうが」
「なるほどな。それにしても阿呆とはな。お前さんよっぽどあいつのことが嫌いみたいだな」
「当たり前だ」

 吐き捨てるかのようにして言うと、そんな俺に視線を寄越して笑う。

「あいつの何が気に入らねえ?」
「全部」

 俺が即答すると何がそんなに面白かったのかじいさんはまたも腹を抱えて笑う。俺は少々むっとしながらじろりと横目で睨んだ。

「…あんた、あいつとは付き合いが長ぇのか?」
「まあな。儂はあいつがオムツの頃からの付き合いだ」

 オムツを変えたことだってあるんだぞ。そう言ってくつくつと喉の奥で笑う。聞けば奴の祖父・父の代からの付き合いなのだという。言われてみれば当たり前のことで、人の子である以上ルパンにだって赤ん坊の頃はあったはずなのだが、そんなことなど想像もつかない。それは俺の想像力が枯渇しているからだけではなく、今の印象があまりに強すぎるせいだろうとも思う。どうせ今と同じような小賢しく小煩いガキだったんだろうということだけはなんとなく想像がつくが。
 ぼんやりと思って、ふと気づく。俺はあの男のことを何一つ知らないという事実に。

「あいつは一体何なんだ」

 短くなった煙草を灰皿に押し付け、俺はじいさんに向かってそう口にしていた。

「そいつはまたえらく抽象的な質問だな」

 じいさんは思案気に眉根を寄せて腕を組む。咥えた煙草の先から少し灰が落ちた。

「…お前さんが聞きたいのは奴の経歴なんかじゃあるまい?」

 問われて小さく頷く。履歴書に載るようなお座なりのことが聞きたいのではない。ルパンという男がどんな人生を歩んだのかよりも、何を考えて生きてきたのか。
 そして。
 何故俺に『なんで殺した』などと問うたのか。俺が何よりも知りたいのはその真意だ。それがわからなければ俺は先には進めない。全てはその一言のせいで俺はずっと無限ループを彷徨っている。そのことに疑問を持ったことなど一度もなかったというのに。

「…儂はあいつの祖父様(じいさま)も親父さんもよく知ってる。随分世話にもなったしな。あいつのことも赤ん坊の頃から知っちゃいるが…」

 そこでじいさんはふっと言葉を切り、短くなった煙草を灰皿に押し付けて俺を見据えた。

「だがお前さんが欲しいような答えはできんだろうよ。儂にもあいつが何なのかなんてよくわからんのだから」

 溜息のように溢された低いじいさんの言葉に、俺は思わず非難がましい目を向けていた。睨まれた先でじいさんはその分厚い肩を小さく竦める。

「まあそう怖い顔をするな」

 それでも不満気な顔をする俺を諌めて。

「儂に言えるのはひとつだけ。あいつは祖父様(じいさま)と親父さんの全てを受け継いだということだけだ」
「…どういう意味だ?」

 奴の祖父も親父も知らない俺にとっては、そんな答えでは全く回答になっていない。そう言って益々眉間のしわを深くする俺に、じいさんはどう説明したものかといったふうに思案気な顔つきになる。

「初代ルパン…つまりあいつの祖父様(じいさま)は義賊とまで呼ばれたこともある仁義に篤い男だったが、そのあとを継いだ二代目…親父さんの方はルパン帝国という組織を完成させ繁栄へと導いた辣腕ぶりを発揮した男だ」
「だから?」

 端的に説明してほしい。そう急かした俺を一瞥し、すっとじいさんの顔つきが変わった。真剣さを帯びた冷たい瞳がじっと俺を見詰めてくる。

「…『なぜ殺した』とお前に聞いた男が、同時に『どうして殺さなかった』とも問える男だということさ」

 低い声。その視線の鋭さが、じいさんの言葉が冗談などではないと告げている。
 ルパンのあの声で、あの瞳で『どうして殺さなかった』と問われるのを想像してしまって、瞬時にぞくりと背筋が粟立つのを感じた。首元に鋭利なナイフを突きつけられでもしたかのような緊張感。酒のせいだけではあるまい、こみ上げてくる吐き気に思わずグラスを握りしめて耐える。
 なぜ殺した。そう問うたのが男の全てではないということなのか。ならば尚更俺には理解不能だ。『どうして殺さなかった』と問えるような二面性を持っている男だというのならば、なおさら何故俺は『なぜ殺した』と問われなければならなかったのだ。何故非難されなければならなかったのだ。益々わからない。
 言葉をなくす俺を残し、じいさんは席を立つ。

「ここは儂が払おう。邪魔して悪かったな」

 そう言って店主に気前よく紙幣を渡し、それからふと何か思い出したかのようにもう一度俺に近寄り、辺りを窺ってからそっと囁く。

「…ビアージには気をつけろよ」
「それは…」

 ルパンのことで頭がいっぱいだった俺はその言葉に反応するのが遅れた。ようやく内容を理解した時には、じいさんは踵を返し店を出て行ってしまうところだった。どういう意味なのだ。やはりビアージ一家は何か危ない仕事に手を出しているのだろうか。

「まいどありぃ」

 そんな俺の疑問は言葉にならず、客を送る店主の不愛想な声だけが店に残る。目の前の酒瓶はほとんど空だというのに、酔いの気配がないどころか胃を鷲掴みにされたような不快感はまだ続いている。

『ビアージには気をつけろよ』

 むくむくとこみ上げてくる嫌な予感を抱え、俺はグラスの中に残った酒を無理やりに煽った。

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