「――――っ!」

 夢に魘されて飛び起きた。いつもの夢だ。胸糞の悪い、過去の闇の中に葬り去りたい記憶が時折暴れ出しては、こうやって眠りを妨げる。
 汗で張り付くシーツが気持ち悪い。外し忘れていた腕時計に目をやれば夕方に近い時間だったが、昼前に帰ってきたこともあって、寝入ってから大して時間はたっていない。これなら寝ない方がマシだったかもしれないとさえ思うくらいにはぐったりと疲れが残り、浴びるほどに飲んだ酒までも残っているのか、かなり胃のあたりも重い。

「…チッ」

 元が何色だったのかも定かではない程にくすんだ色の天井を見上げて、小さな舌打ちを一つ。このまま寝なおしたところで到底夢見がよさそうにはないから、俺は諦めてベッドから這い出した。



4. side-JIGEN





 仕事先から与えられた部屋は、簡素なベッドがひとつと旧式のテレビがあるだけの質素で殺風景なワンルーム。ところどころかなりガタの来ている年期の入った建物だが、雨風が凌げて寝るところがあればいい性質だから何一つ問題はない。
 玄関からベッドまでの間に点々と脱ぎ捨てられたスーツを片付け、皺だらけのワイシャツを廊下に置かれた洗濯機に放り込んだ。適当に洗剤を流し込んでスイッチを押せば、旧式の洗濯機はいかにも面倒といった感じのモーター音をたてながら億劫そうに動き出す。それを見届けてから、俺は煙草の箱とライターを握って小さなベランダへ出た。窓を開けた瞬間に吹き込んできた冷えた空気に身震いをする。
 だが、淀んだ頭を少しだけ清浄にしてくれる気がした。

 夕焼けに染まった街は家路へと急ぐ人々で慌ただしい。近所の家が夕食の準備をしているのだろうか。辺りには食欲をそそるいい匂いが立ち込めていた。人間の身体ってのは正直なもんで、美味そうな匂いに途端に胃が動き出すのがわかる。そういえば昨夜から何も食ってなかったな。こうも酒が残っていては流石に腹が減ったとまではいきそうにないが。そんなことを思っていると、どこで教会の鐘が鳴るのが聞こえた。
 俺はベランダの柵にもたれ掛り、咥えた煙草に火を点けた。白い煙が真っ赤な空に棚引いては消えていくのをぼんやりと眺める。

『何故殺した?』

 不意に、脳裏に思い出したくもない声が響いた。もう、ひと月も前の出来事だ。人が血に染まる光景など見飽きるほどに見てきたはずだというのに、なぜあの夜のことばかり思い出すのだろうか。いや、あの光景よりも忘れられないのは、ルパンの声。あの、感情のない冷たい声が脳裏から離れない。

『何故、殺した? 答えろ』

 只の疑問とも非難とも取れる、淡々とした言葉だった。感情の読めない冷たい声にそう問われて、俺は胸の奥がざわめくのを感じた。焦燥感のようでも不安感のようでもある不思議なぞわぞわとしたざわめきは、今まで感じたことのない感情を呼び起こした。そしてそれは、湖面に小石を投じた時のような漣になって、今なお思い出すごとに蘇ってはどんどん波紋を広げて俺を苛んでいく。

 どんな時も引き金を引くことに疑問を持ったことはない。否、疑問を持てば引き金は引けない。そして引き金を引けないということは自分の死を意味するだけだ。殺るか、殺られるか。その中間はない。だから、『何故』と問われること自体が俺には本気でわからなかった。
 ルパンだって裏世界の住人のはずだった。命を狙われることだってあるだろう。そんなときに必要になるのは確実な腕と冷静な頭脳、そして何も考えずに引き金を引く冷酷さ。それなしには裏の世界では名前を売るどころか生き延びることなんて出来やしない。いくら高名な一家の出身であり幼い頃こそ乳母日傘で育ったのであろうルパンとて、今こうやって生きているからには誰かの命と引き換えに生き延びてきたはずなのだ。

『お前は俺の人殺しの腕を買った。違うか』

 そう答えた言葉は俺の本心だった。今まで自分を雇ってきた奴は皆、人殺しである俺の腕を買った。己の命を引き延ばすため生き残るために、俺の“死神の腕”に対価を支払った。この腕がある限り、この腕に金を払う人間がいる限り、俺もまた同様に生き延びることが出来る。死神の腕は俺の全てだった。次元大介という男から銃の腕を取ってしまったら何一つ残らない。だから。

『何故、殺した』

 その問いは、俺の感情を揺さぶると同時に、俺のアイデンティティそのものを脅かす問いでもあった。死神の腕以外に、この俺に何の使い道があるというのか。殺すこと以外にこの腕にどんな意味があるというのか。殺人の道具であるはずの拳銃に他にどんな使い道があるというのか。殺さなければ殺されるのがこの世界だというのに、ルパンという男は何故そんなことを改めて聞くのか。自分だって他人を殺して生きてきたのではないのか。何故俺が非難されなければならないのだ。

『もう少しまともな男だと思ってた俺が馬鹿だったみてえだな』

 揺さぶられた感情のままに詰るようにしてルパンにぶつけた言葉は紛れもない本心だったが、鬱々と渦巻く感情のうちの一握りもない。何故。何故。反芻してみるほどに分からなくなる。
 そして、何よりわからないのが、『何故自分がこんなにもその言葉に気を取られているのか反芻し続けているのか』ということだった。いつものように『気にするな』と自分に言い聞かせて流してしまえばいいだけなのに。“人殺し”と“死神”と、陰口を叩かれようが詰られようが罵られようが、いつだってそうしてきたというのに。何故今度に限ってそれができないのか。何故こんなにも気にかけなければならないのか。分からないだらけの無限ループ。頭が割れそうなのは、二日酔いで残った酒のせいだけではないはずだ。

『お前に俺の何がわかる!』

 何故殺した。その声が離れなくなるにつれ、そう叫び出したい衝動に駆られる。お前に俺の何がわかる。俺がどんな風にして生きてきたか、生き延びてきたのか、何も知らない癖に。
 噛み合わないのだ。ルパンという男に会ってから、それまできちんと動いていたはずの自分の中の歯車が。油切れのようにぎしぎし音を立てて、時に外れそうに軋みながら俺を責めたてる。
 考えても答えが出ないのならば、考えることすらやめてしまえばいい。だが今の俺はそれすらもできないでいる。気が付けばルパンの言葉を反芻する毎日。やっぱり、あんな男の仕事は引き受けるべきではなかった。今更後悔しても遅い。

 溜息をひとつ溢し、ほとんど吸わぬ間に短くなった煙草を乱暴に手摺に押し付けて、部屋へと戻った。ほんの少しの間だったというのに身体は冷え切っている。シャワーを浴びようかとも思ったがそれも面倒で、結局またベッドに倒れ込んでテレビをつけた。
 天気予報によれば今日はこの冬一番の冷え込みだったらしい。道理で寒い訳だ。そんなことを思いながらぼんやりとチャンネルをまわしていると、見覚えのある顔が映し出した。
 大写しにされたのはいかにも凶悪そうなルパンの写真。だが丁度話題が替わるところだったのかすぐに画面は切り替わり、小太りの中年男性アナウンサーは淡々とした声で別のニュースを読み上げ始めた。

「…チッ」

 今一番見たくない顔を見てしまった。またも脳裏にあの言葉が浮かんできてしまって、俺は無限ループに陥る思考を遮るかのようにテレビの電源を落とす。冷たい水で乱暴に顔を洗い、備え付けのクローゼットから新しいワイシャツを引っ張り出して身支度を整えると、足早に簡素なアパートメントを後にした。

 藍色の帳の降り始めた街を抜け、向かう先は仕事場。この街を根城にするマフィアのドン、カルロ・ビアージの屋敷だ。俺は今、そこの用心棒として雇われている。尤も、組織の用心棒ではなくボスであるカルロの個人的な用心棒だから、カルロに外出の用事があるときなど指示があった時に同行すればいいだけ。それ以外はかなり自由を許されているのだから気楽なもんだ。とはいえ1日に1回くらいは顔を見せておかなければ後でねちねちと文句を言われるのは目に見えているから、気分は乗らないがこうやって足を向けている。
 街の中でも富裕層の住む一角。その中でも群を抜いて巨大なカルロの屋敷は見上げる程の高い壁に囲まれている。外観こそ街の景観に配慮しての煉瓦風だが中身は鋼鉄の鉄板入りで、戦車でも持ってこなければ破壊できないような代物。そこがマフィアの屋敷というのは街でも有名な話らしく、人っ子ひとり辺りを行き交う姿はない。プロレスラーかボクサーかと見まがう屈強な男が左右に立つ門の前で、俺は与えられているIDカードを差し出した。
 と。

「おう、“死神”じゃねえか」

 突然背後からかけられた甲高い声に、俺は小さく舌打ちをする。また面倒な奴に見つかってしまった。その声に振り替えることもせず、俺は返されたIDカードを受け取り、門をくぐった。当然のように付いてくる男の気配に、俺はため息をつきながらようやくちらりと視線を向ける。
 ひょろりと背の高い不健康そうな体躯に鋭い三白眼と銀縁眼鏡。これみよがしにはめられた金の腕時計にブランド物のスーツという、マフィアというよりはやり手の銀行マンか何かにも見えるような風貌の男の名はルチオ。組織のナンバー2で、その風貌通りというか、組織の会計部門で権力を握るカルロ腹心の部下だ。実務面にはあまり明るくないらしいが俺の評判は聞き知っているようで、カルロが俺を雇ったことが不満なのか何かにつけて突っかかって来るのが面倒で仕方ない。実のところ俺が呼ばれなくてもこうやって1日に1回は顔を出すようにしているのは、とにかく難癖をつけたがる口煩いこいつのせいなのだが。

「今頃ご出勤とはいい身分だな」

 どうやら今日も“舌好調”らしい。その嫌味たらしい口調がただでさえ毛羽立った俺の神経を逆撫でするものだから、隠すこともなく思い切り顔をしかめてやる。

「…どっかの誰かさんが柔らかいベッドでぐっすり寝てる頃に、俺は身を粉にして働いてたもんでな」

 昨夜は、カルロが愛人とかいう女とホテルにしけこむのにお供で連れて行かれていた。正直俺としては勘弁して欲しかったのだが、これも仕事だから仕方ない。命じられるままにカルロが女といる隣の部屋に陣取り、これでもかってくらいに煙草を消費しながらひたすら夜が明けるのを待つという苦行に明け暮れていたのだ。当然カルロが屋敷に帰ってしまえば俺はお役御免。呼ばれない間に何していようが文句を言われる筋合いはない。ルチオだってそれは知っているのに、あえて突っかかってくるのだから余程俺のことが嫌いなのだろう。だがそれはお互い様だ。
 腹立ちまぎれに目一杯の皮肉を込めて投げつけた言葉だったが、それを聞いたルチオはにやにやと笑う。

「夜のお仕事ってわけか。ボスにそっちのケがあったとは聞いてねえな。お前さん、そうやって今までも渡り歩いてきたのか?」

 甲高い声の下品な笑い。いつもなら無視して済ます類の言葉が、寝不足のせいなのかなんなのか、なぜかその時は酷く癇に障った。瞬時に沸いた頭。我に返った理性が制止するよりも先に身体が動いていた。抜き放ったマグナムが自分の額に押し当てられる瞬間を、おそらくルチオは見えてはいなかったはずだ。

「…いいのか? 俺を殺せばお前だってすぐにハチの巣だぞ?」

 ゴリゴリと音を立てて眉間に押し当てられる銃口に少し引きつったような顔をしながらも、それでも平静を装って口元に薄ら笑いを浮かべるルチオ。俺の背後で門番達が銃を向けてくるのがわかる。

「俺がこの世界を渡り歩いてきた腕が知りたいんだろう? いつでも教えてやるぜ」

 地を這うような低い声でそう告げた。人を嘲るような表情と笑いが心底癇に障る。こんな奴に俺の何がわかるというのだ。逆撫でされた神経はびりびりと毛羽立って今にも引きちぎれそうなほどに傷んでいる。その痛みに反応したかのように、腹の中でどす黒くとぐろを巻く感情が蛇のように頭をもたげて殺してしまえばいいと囁いたから、俺はゆっくりと撃鉄を起こした。そうだ。こんな奴を殺すぐらいなんてこともないではないか。沸騰した頭でそう思ったその時。

「おい、次元! やめんか!」

 突然俺たちの間に割って入ってきた人影。

「ボス!」

 驚いたような声を上げたのはルチオの方だった。
 葉巻と香水と体臭の混ざった濃い匂いに二日酔い気味の胃がひっくり返りそうになり、一気に殺意が削がれた。
 少々薄くなった髪を整髪料でべったりと撫で付け、派手なスーツにその巨体を包んだ中年の男こそが今回の雇い主。マフィアの首領、カルロ・ビアージその人。顎をしゃくって俺に銃を引くように告げ、それから俺に狙いをつけていた門番たちにも銃を下ろすように言う。

「ルチオ。お前もだ。あまり次元を挑発するんじゃない」
「けどボス…」
「いいから黙れ」

 ぴしゃりと言われ、不満そうな顔を隠そうともしないルチオ。カルロが俺を重用することが心底気に入らないらしい。

「…運が良かったな」

 俺は撃鉄を戻してマグナムを腰の後ろに仕舞う。これで1日1回顔を出すノルマは果たしたのだ。これ以上この胸糞の悪い屋敷に長居する義理はない。煮え繰り返るような感情と男の眉間に銃弾を叩き込みたい欲望を必死で押し殺し、俺は踵を返した。

「…野良犬め…!」

 背後で吐き捨てるようにして発されたルチオの声。
 またひとつ、自分の中で音を立てて歯車が外れたような気がした。

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