ある少年の思い出

「次元さん、こんなところにいたんですか?」

 午後の日差しが降り注ぐお屋敷の屋根の上。 屋根裏の窓から出たところに、僕の探している人物はいた。
 ジャケットも脱ぎ、クロスタイも外し、腕もまくり、かなりラフな恰好で煙草をふかしている。
 次元大介。東洋人だと聞いている。 そんな人がなぜ、イタリアでも有数の大財閥であるバルドーニのお屋敷で働いているのかは分からない。 1週間前に紹介状を持ってふらっと屋敷に現れたこの人を、旦那様はいたく気に入り、 その日のうちにここで働くことを許可したと聞いている。

「ん? 何だ、アレッシオか」

 ひょい、とこちらを向いたその顔は、でもどことなく、僕ら西洋人にも馴染みある顔立ちのようにも見える。 彫りの深い目鼻立ち。黒い髪と瞳。東洋人だと言われればそうだし、違うといわれれば違う。 いずれにせよ、かなり整った顔立ちは女の人にきっとよくモテるんじゃないだろうか。 無国籍な人だと思う。きっと、ここに来るまでは、いろんなところを渡り歩いていたのだろう。 イタリア語はかなり流暢だし、他にも英語とフランス語も解すのだと、マルチェッロさんは言っていた。
 この屋敷からさえほとんど出たことのない僕には、まるで夢のような話だ。

「何か用か?」

 そう問いかけられて、ようやく僕は自分の仕事を思い出す。 そうだ。突然姿の見えなくなったこの人を、マルチェッロさんに探して来いと言われていたのだった。

「何か用か、じゃありません。次元はどこに行ったって、マルチェッロさんカンカンですよ」

 僕がそう告げると、次元さんはあからさまに眉間にしわを寄せた。

「ったくめんどくせぇなぁ。俺の仕事はもうすんだってのに」

 新入りにも関わらず、次元さんの仕事は旦那様のお世話。 とにかく旦那様の身の回りのことをするのがメインなので、旦那様が仕事にお出かけの間は特にすることがない。

「急ですけど、夕方旦那様がこちらへ来られるそうなんです。次元さんを迎えによこせと仰られてて」
「ふーん、サルヴァトーレの狒々爺がねぇ」
「次元さん!」

 マルチェッロさんに聞かれたら殺されかねない台詞を、次元さんは平然と煙草の煙と共に吐いた。
 仕事は出来るし、頭も切れる。 だけど、忠誠心だけはどう見ても皆無で、人の下で働くのは苦手そうに見える。 しかもそれを隠そうともしないから、マルチェッロさんの逆鱗に触れることになるのだろう。 こういうところを見ると、どうしてこの人はこの屋敷に来たのだろうと、心底不思議でしょうがない。 一匹狼。そんな言葉がこの人には良く似合う。

「なぁ、アレッシオ」
「何ですか?」
「…お前、ここが好きか?」

 不意に、見つめられてそんなことを聞かれた。 無言になった僕らの間を風が通り抜け、無造作に括った次元さんの髪が揺れた。

「何を突然…」
「ここが好きかって聞いてるんだ」

 答えないことを許さないような、少し高圧的な声色。

「僕は…」

 両親がバルドーニ本邸の使用人で、生まれてからずっとバルドーニに養われてきた。 ここに連れてこられたのは両親が死んだ3年前。それ以来、ほとんど外に出ることもなくここに居る。 たった13年間の人生。他を知らないのだから、たとえここが嫌いだったとしても、僕には行く当てもない。

「僕は…」
「アレッシオ!! どこへ行った!?」

 僕が口を開きかけたとき、下からマルチェッロさんの怒声が聞こえてきた。

「やばっ! 僕まで怒られる!!」
「しゃーねぇ…お前は後から来い。巧いこと誤魔化しといてやるから」

 短くなった煙草を揉み消し、次元さんは屋根裏に滑り込んで行った。 1人残された僕の心は、いつまでもざわついたままだった。


*  *  *  *  *  *


 夕方、次元さんの運転する車で帰って来た旦那様はとても上機嫌だった。

「お帰りなさいませ、旦那様」
「ただいま、マルチェッロ。アレッシオ、今日も可愛いねぇ」

 迎えに出た僕らひとりひとりにハグとキスをするのは、機嫌のいい証拠だ。 その後ろを、次元さんはただ黙って従っていた。
 夕食のときも、旦那様はとても饒舌で、上機嫌だった。 会社でのお話や、本邸のお話をとりとめもなくよくお話になっていた。

「な? そう思うだろう? 次元」
「…はぁ」

 話を振られても、次元さんは大した返事をしなかった。はいとかいいえとか、そうですねとか。 僕らがそんな反応を示そうものなら、旦那様はすぐにお怒りになるのに、なぜか次元さんには旦那様はお咎めをしないのだった。
(この人は、一体何者なんだろう?)

 僕の中で、昼間の質問が膨らんでいく。

『お前、ここが好きか?』

 何故、そんなことを聞くのだろう。何故。この人は一体、何者なんだろう。

「アレッシオ、どうかしたのかね?」
「あ、いえ、何も。…すみません」

 ふと気付くと、怪訝な顔で旦那様が僕を覗き込んでいた。

「ふむ…何か悩み事でもあるのかね? アレッシオ、後で私の部屋に来なさい」

 そう告げられた瞬間、ふっと部屋の中に漂っていた緊張が途切れた気がした。 みんな、安堵しているのだ。…呼ばれなかったことに。 あれだけ旦那様に忠誠を誓っているマルチェッロさんでさえ、微かに表情を緩めている。

「…はい…」

 反面、僕は重苦しい気分を抱えることとなった。 旦那様の部屋に呼ばれるということが特別な意味を持つということには、3年前、初めてこの屋敷に来たときから知っている。

 夜も更けて、皆が寝静まる頃、僕は自分の部屋を出た。屋敷の一番奥にある、旦那様の部屋へと向かうために。

「…そんなに嫌なら、行かなきゃいいんじゃねぇのか?」

 不意に背後から声をかけられて、僕はびくりと身体を強張らせた。

「…次元さん…?」

 そこに立っていたのは、次元さんだった。 こんな時間なのにも関わらず、ジャケットを脱いだだけの制服姿で、相変わらず煙草をふかしている。

「…屋敷内で吸ったら怒られますよ」
「かまやしねぇよ」

 平然とした態度でそんなことを言う。

「それよりお前だ。嫌なら行かなきゃいい。あんな狒々爺ほっとけよ」
「…そうできたら、どんなにいいか」

 旦那様に歯向かえばここを追い出される。 そして、ここから先の人生に、どんなときもバルドーニの陰が落ちてくる。 まともな仕事にも就けず、住むところもなく、そして最後にはのたれ死ぬのだ。 ここに来てたった3年の間に、僕は何人もそんな人を見てきた。 だけど、『これ』さえ我慢すれば、住むところも食べるものも着るものも保障してもらえる。お金だってもらえる。

「そうやって、一生ここで暮らすのか?」
「あなたには…! あなたには分からない…!! 僕の気持ちなんか!」

 外の世界を知らない僕に、ここを出て行くのは無理だ。 出て行けたらどんなにいいだろうという羨望と、そんなこと出来っこないという諦めと。ずっとその二つに挟まれている僕を。 きっと自由気ままに世界を渡り歩いてきたんだろう、この人には、きっと僕の気持ちなんか。

「…もう一度聞く。お前、ここが好きか?」

 僕の八つ当たりにも近い言葉にも動じず、次元さんは、昼間と同じ台詞を口にした。

「僕は……!!」


*  *  *  *  *  *


「アレッシオ、遅かったね」
「すみません…」

 待ちかねていたのだろう。旦那様は、僕がノックをするのとほとんど同時に扉を引いた。 手元のグラスには、ワイン。

「飲むかね?」
「いいえ」

 随分飲んでいたに違いない。かなり酒臭い息で僕に近寄る。 そうだ、アレッシオ。思考を停止しろ。忘れてしまえ。この時間さえ耐えればいいのだから。

「アレッシオ、こっちへおいで」

 ベッドの上で、旦那様が僕を呼ぶ。しかし、何故だか足が動かなかった。今までどんなに嫌でも、諦めてきたのに。 …いや、諦めたフリが出来ていたのに。

『お前、ここが好きか?』

 次元さんの低い声が耳から離れない。心がざわついて仕方ない。

「どうした? アレッシオ」

 好きなわけ、ない。こんなところ。こんなところ、大っ嫌いだ。

「アレッシオ、さぁ、おいで」

 旦那様の手が、僕の腕を掴んだ。その時。 突然の爆音が、屋敷を揺らした。

「何だ!?」
「旦那様!」

 どんどんと、寝室の扉を叩く音。

「何だ? どうした?」

 ドアを開けると、そこにはさっきと同じ姿で次元さんが立っていた。

「次元か。どうしたんだ? さっきの爆発は一体…」

 そう問いかけた旦那様は、しかし、途中で言葉を切った。 さっきと同じ姿と思っていた次元さんの手には、黒い塊。拳銃だ。

「その手を離せよ。色惚け爺」
「次元さん!?」

 僕の腕を掴んでいた旦那様の手から力が抜ける。その表情は強張り、額を冷や汗が伝っている。

「アレッシオ。悪いが窓の鍵、開けてくれないか」

 旦那様の緊張感とは対照的に、次元さんはいつもと変わらない様子でそう僕に告げた。

「え? あ、はい」

 あわてて、バルコニーに繋がる窓の鍵を開ける。と。

「おまったー次元ちゃん〜お迎えにあがりましたよ〜」

 突然、真っ赤なジャケットを着た、やけに飄々とした男が飛び込んできた。

「な…え…なに・・・!?」

 突然のことに二の句が告げないでいる僕を横目に、赤ジャケットの男はひょいひょいと僕らに近寄ってくる。

「誰だ、お前は!!」

 銃を突きつけられたまま、旦那様が叫んだ。見知らぬ来訪者に混乱しているのは、僕よりも旦那様のほうだろう。 見たこともない引き攣った顔で、それでも精一杯の虚勢を張って赤ジャケットの男に向かって叫ぶ。

「俺? 俺様は天下の大泥棒、ルパ〜ン三世。以後お見知りおきを〜」

 男はそう言って、にかっと笑った。

「ルパンだと!?」

 ざっと旦那様の顔から血の気が引いた。

 聞いたことがある。かの有名なフランスの大泥棒、アルセーヌ・ルパンの孫であり、自身も世界を股にかける大泥棒。

「まさか、ワシの金庫を…」
「そ、そのまさかよ。さっきの爆発騒ぎの間に、さっくり頂いちゃいましたんで〜」
「しかしあそこのセキュリティは…」
「有能な相棒のおかげで、大した事なかったぜ、あんなもん」

 ひょいと、ルパンが顎で指し示した先にいるのは、次元さんだけ。

「まさか、次元、お前…」
「これでも次元大介って言えば、裏の世界じゃちっとは知れた名前なんだがな」

 苦笑交じりにそう言い、そしてべりべりと顔から何かを剥がす。 どういう仕掛けかは知らないが、その下から今までなかった立派な顎鬚が現れた。変装していたなんて、全然気付かなかった。

「やれやれ、暑苦しくてかなわなかったぜ」

 ぼやきながら次元さんは拳銃を腰の後ろに納めた。 旦那様は呆けたように座り込み、どうやらもう抵抗する気力もないようだ。

「次元さん…」
「ってことだ、アレッシオ」

 ひょいと肩をすくめ、次元さんはいつもの煙草に火をつける。ふわりと、ほんの少し甘い香りが広がった。

「じゃぁな」

 踵を返し、背中越しに手を振るその姿は、なんとも、なんともかっこよかった。

「待て! 待ってくれ!」

 しかし、その背中に旦那様が追いすがった。

「行かないでくれ。金ならいくらでも払おう。ワシの傍にいてくれ。ワシに仕えてくれ」

 僕は、子供のように追いすがる旦那様を、ただ呆然と見ていた。わけが分からない。なんで。

「お前に、仕えろだと?」

 ぴくっと、次元さんの眉が跳ね上がったのが見えた。怒っている。

「そうだ、ワシに仕えてくれ。アレッシオや、マルチェッロや、ほかの者のように!!」

 いい終わるのとほぼ同時に、旦那様の身体が宙を舞った。次元さんとルパンが、その鳩尾に拳を叩き込んだのだ。

「…思い上がりも大概にしろよ。ここにいる奴らはな、誰一人お前なんぞに仕えちゃいねぇんだ」

 眉間にしわを寄せ、次元さんは本気で怒っていた。何のために? 誰のために? …僕のために…?

「ったく、俺の次元に気安く触るんじゃねぇっての」

 隣でルパンがそんなことをぼやく。

「…いつからお前のになったんだ、俺は」

 2人はそんな飄々とした会話を交わしているが、床に伸びた旦那様は、口から泡を噴いて白目をむいて伸びている。

「旦那様!!」
「アレッシオ、ほっとけ」

 苦々しい顔で次元さんが僕を止める。

「でも…」
「覚えとけ、アレッシオ。誰かに仕えるってことはな、そいつに命を預けるってことだ」

 分かるか? 黒い眼が、僕を見据える。

「お前はこいつに命まで預けるのか?」

 答えは、否だ。ゆっくりと首を振った僕の頭に、次元さんの大きな手が乗せられた。

「それでいい。決めるのはお前だからな」
「次元さ…」

 涙が溢れて止まらなかった。そんなこと、初めて言われた。そんなこと。

「…次元さんには、いるんですか。命を預ける人」
「…まぁな」
「それは…」

 誰ですか。そう聞こうとして、でも、僕は口を閉ざした。きっと、それは。

「ああそうだ」

 思い出したように、次元さんは一枚の紙切れを僕に手渡した。

「ここを出る気があるのなら、そこを尋ねてみな」
「待ってください、これは…!」
「大丈夫。おまえなら、ちゃんと外へ出られる」

 じゃあな。そういい残して、次元さんはルパンと一緒にバルコニーから飛び降りた。

「待って!!」

 慌てて駆け寄ったが、遠くを黄色いフィアットが走っていくのが見えただけだった。


*  *  *  *  *  *


「アレッシオ! なにぼさっとしてやがる!!」
「はい、親方!! 今すぐ!」

 あれから、数年。僕は学校に行きながら、ベネチアのガラス職人の下で働いている。 次元さんのくれた紙には、ここの親方の住所と連絡先が書いてあったのだ。 無口で頑固で職人気質な親方は、時に厳しいが、それでも僕を家族のように扱ってくれる。
 遠い噂によれば、バルドーニグループは収賄や贈賄なんかの犯罪が明るみに出たとかで、もはや壊滅的な状況にあるらしい。 その捜査の過程で、旦那様が別邸で長年行ってきたことも明るみに出たらしい。
 でも今の僕には関係のない話だ。
 時たま思うことがある。
 あの時、次元さんという人に出逢わなければ、僕はどんな風になっていたのだろう。今でもあの屋敷で暮らしていたのだろうか。 僕には、命を預けてもいいと思えるような人はまだいない。 次元さんの、命を預けた人とは、きっとあの大泥棒のことなのだろう。 彼らの活躍は、よく新聞で見かける。昨日もフランスのルーブルから絵を、その前はどこかの貴族のお屋敷から宝石を盗み出したとか。
 いつかまた。また、次元さんに逢える日がくるだろうか。その時僕は、胸を張ってここが好きですと、言えるだろうか。

「こらぁ! アレッシオ! ぼけっとするな!!」
「わー! 親方! 拳骨だけはっ…!!」

 次元さん、いつか遊びに来てください。そのときには、僕が作ったグラスで、一緒にワインを飲みましょう。

Fin.
ある少年との思い出

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