次元が去った後のリビングで、五右ェ門はなおも動けずにいた。
忘れたようにテーブルの上を転がったグラスが床に落ち、がしゃんと砕け散った。
そんな様子を視界の端に入れ、まるで今の自分達のようだと、そんなことを他人事のように思った。
乱暴に伸ばされた腕。自分を引く手も、押し付けられた唇も、あの夢と寸分たがわず。ならばやはりあれは夢ではなかったというのか?
『お前が好きで好きで、俺のもんにしちまいたくてどーしようもねぇんだ』
真っ直ぐに見上げてくる黒い瞳が。
ようやくのろのろと立ち上がり、転がったままの愛刀を仕舞う。カシャンと、やけに大きな音が部屋に響いた。
重い身体を引きずって自室に戻る。
ルパンがわざわざ用意してくれた和室。1番落ち着くはずのその空間が、なぜか今は落ち着かない。
部屋の隅に膝を抱えて座り込む。
『寄るなっ!!』
思わずそう叫んだ後、次元がどんな顔をしていたのかわからない。だが、そのあとのひどく苦渋に満ちた呟きが、五右ェ門の心を抉った。
『…悪かった』
何が悪かったというのか。キスしたこと? 好きだと言ったこと? それとも?
悪かったというくらいなら、なぜあんなことをしたのか、とも思う。
だが、真に謝らなければならないとするなら、それは次元ではなく自分の方だ。
真摯に好意を寄せてくれた次元を拒否し、傷つけた自分の方。
だからこの胸が痛んだとしても、それは自分のものではなく次元の心の痛み。
『斬れよ』
その言葉は半ば本気だったと思う。ひどく哀しげに揺れた瞳が、頭から離れない。
まさかそんなはずはないと思っていた。次元の揺らぎの原因が自分であるなど、露ほども思っていなかった。
きっと気のせいだと。
今なら、次元が自分と距離を置こうとしていた意味が分かる。優しい男だから。こうならないために距離を置こうとしていたのだ。
その境界を無防備に踏み越えたのは自分。そしてその結果がこれだ。
次元のことは好きだ。
だが、次元の言う好きと自分の好きが違うことくらいは、いくら自分が鈍感でもわかっている。
「…わからない」
思わずそんな言葉が漏れた。
わからない。どうすればいいのか。途方に暮れるとはまさにこのことだ。
何もかもがわからない。どうすればいいのかという解答はおろか、どうするべきという模範解答すら想像がつかない。
例えばどちらかが女だったのならば、こんなにも途方にくれることはなかったと思う。
ハイかイイエか。簡単な二択で答えは出る。
だがこの場合、次元は男で自分も男で。ハイと言おうがイイエと言おうが問題だらけになるのは目に見えている。
自分でもわかるこんなことに、次元が気付かないはずがない。だからやはり悪いのは自分。
そこまで考えて、五右ェ門は小さく苦笑した。
堂々巡りだ。相変わらずの。
そして、その原因は完全に自己嫌悪から発生している。
次元を傷つけてしまった自分への自己嫌悪から。
ブロロロロロ
不意に外からエンジンの音がした。
窓を見やれば、明けかかった空が青白く染まっていた。
ルパンのベンツではないようだから、おそらく次元が出て行った音だろう。どんな顔をして会えばいいかこれで考えなくてもよくなったわけだ。
そんなことを思い、五右ェ門は小さく口を歪めた。多分次元も同じことを考えたのだと思う。
ルパンが帰ってきたら。
ルパンが帰ってきたら、修行に出よう。
こんな精神状態ではルパンたちと仲間としてやっていける自信はない。何より、ひとりになって心の整理をつけたかった。
「次元…」
次にその名を呼ぶのはいつになるだろうか。いや…もう自分はここに戻らない方がいいのかもしれない。
また、外からエンジンの音が聞こえてきた。今度はどうやらルパンらしい。
強張った身体を起こし、ルパンに会うために五右ェ門は玄関へと向かった。