ロンドン名物の深い霧が街を包む。
ずっとアジトにいるのも飽きた次元は、ひとりでなじみのパブのドアを押した。
カランと、ベルの音が客の来訪を告げる。
街中にあるにもかかわらず静かで、雰囲気のいい店内。
そして何より並んだ酒と流れる音楽のセンスのよさに惹かれ、この1週間ほどの間に通い詰めていた。
「いつものやつかね?」
カウンターに近寄った次元に、顔なじみになった老バーテンダーが声をかけた。
「ああ。スコッチウイスキーをロックで」
少し考えた後そう答えると、老バーテンダーは小さく肩をすくめた。
「たまにはエールもどうだ?いいのが入ってるぞ?」
「また今度な」
グラスを受け取り、代金を置いて店の奥へ向かう。
一番奥のテーブルが空いているのを見つけ、そこへ陣取った。
ルパンに仕事と呼ばれてきたはいいものの、下調べなんかで働いたのも最初の2日ほどだけ。
ここ数日はろくにやることがなくてとにかく暇を持て余していた。
そんなのはまぁ慣れているといえば慣れているのだが、問題は、五右ェ門と四六時中アジトで顔を突き合わせていないといけないことだった。
あの事件以降、次元は意識的に五右ェ門に関わり過ぎないようにしようとしていた。
自分の中で生まれてしまったこの感情を気取られるわけにはいかないからである。
いや、それ以上に、近づいてしまえば簡単に理性を崩壊させてしまいそうだという懸念のほうが大きいかもしれない。
あの薄い唇を奪って、押し倒して、自分のものにしてしまいたい。そんな欲求が、五右ェ門の姿を目にするたびに頭をもたげてくる。
「…ホントどうかしてるぜ」
ため息のようにそう呟いてグラスの中のウイスキーをあおると、重い悩みには似つかわしくない、甘い芳香が口の中に広がった。
本当にどうかしている。
気付いた頃には時間が経てば収まるだろうと楽観していた。だが時間が経てば経つほどに、収まるどころか膨らんでいく感情。
決して手に入ることはないというのに。
むしろ手に入らないから膨らんでいくのか。欲しい。どうしても。この手に抱けたら。
「まるで子供(ガキ)だな」
これではおもちゃを買ってもらえない子供のようにだだをこねているだけだ。
「随分浮かない様子ね。女にでもフラれたの?」
不意に自分の横で女の声がした。顔を上げれば、亜麻色の髪の女が次元を見下ろしていた。
年の頃は25・6といったぐらいだろうか。
ちょっときつめな顔立ちにグラマラスなプロポーション。街中で目立ちそうな、派手目な美人だ。
「…そう見えたか?」
するりと隣に腰を下ろした女にそう聞けば、女は大げさに肩をすくめた。
「この世の終わりみたいなオーラ出しといてよく言うわ。でもあなたみたいないい男フるなんて、相手も罪な女ね」
「…そんなんじゃねぇよ」
そんなんじゃ。口の中で小さく呟く。
フるとかフラれるとか、いっそそんな潔い関係にさえ憧れる。
出口の見えない迷路から抜け出せるのなら、神様どころか悪魔にだってすがりたい気分だ。
「ま、嫌なことは飲んで忘れましょうよ」
ね?と近寄られ、鼻先を甘ったるい香水の香りが掠めた。
「それともどこか別のところへ行く?アタシ、その帽子の下の素顔が見たいかな」
耳元で囁かれた。誘われているわけだ。行きずりの情事に。
それもいいかもしれないと思った。もしくは女でも抱けば、少しはこの気持ちに整理がつくかもしれない。
「こんな顔でよけりゃいくらでも見せてやるよ」
グラスに残ったウイスキーを飲み干し席を立つと、女のほうもそれに習った。
するりと伸びた手が、次元の腕に絡む。二の腕に、柔らかい胸が押し当てられた。この感触も久しぶりだ。
カウンターの中で、老バーテンダーがちらりとこちらを見るのが見えた。
「また来る」
そう告げれば、バーテンダーは小さく口の端で笑った。
店を出て、街の中を歩く。
女も名乗らないし、次元も聞こうとは思わない。それがルール。
「ねぇ」
街灯の途絶えた暗がりで、不意に女がキスを求めてきた。
気が早い女だ。苦笑しながら、それでもそれに答えてやる。
重なった唇には口紅の感触。積極的に絡められる舌。背中に回る腕。押し付けられる柔らかい身体。鼻を衝く香水の匂い。
いつもなら興奮の材料になるはずのそれら全てが、なぜか鬱陶しいと思った。
「どうしたの?」
ぴたりと動きを止めた次元を怪訝な表情で女が見上げる。
「…悪ぃ。帰るわ」
帽子の鍔をおろし、くるりと踵(きびす)を返す。
「な…何言ってるの?」
「用事を思い出したんだ。またな」
後ろを振り返りもせずそういい置かれ、女はぽかんとその背中を見つめていたが、プライドを傷つけられた怒りで形相を変える。
「意気地なし!最っ低!!」
背後から浴びせかけられる罵声。
「…ああそうさ。俺は意気地なしで最低な男だ」
女の声が聞こえなくなってからようやく立ち止まり、自嘲気味に唇を歪めた。
煙草を吸おうとポケットをまさぐり、探し当てた赤い箱が空なことに気付く。
「ちっ…」
舌打ちして側のゴミ箱に投げれば、その上で寝ていた野良猫に抗議の声をあげられた。
女の全てを鬱陶しいと思い、そして刹那脳裏をよぎったのは五右ェ門の横顔。
無意識のうちに女とあいつを比べていた自分に、心底嫌気がする。
「最っ低だぜ、本当に」
やり場のない、怒りにも似た感情を抱えたまま、行く当てもない次元はアジトへと足を向けていた。
*
「よぉ、お帰り〜」
今回のアジトである小さなホテルに帰ると、五右ェ門とルパンが次元を出迎えた。
「なんだ。帰ってたのか…」
「計画が出来上がったんでね。決行は明日の晩だ」
にっと笑ってウインクしてみせる。
どうやらその打ち合わせを五右ェ門としていたのだろう。
テーブルの上には資料と思しき紙が並べられている。
「どこに行っておたのだ?」
「…別に。飲みに出てただけだ」
何も言わずに出ていたから、気になっていたのだろう。
真っ直ぐに向けられた五右ェ門の視線。だが次元のほうはふいっと視線をはずす。
あんなことの後では、なおさら直視などできはしない。
「…飲みに出てただけねぇ」
そう答えた次元を上から下まで一通り眺め、ルパンがにやぁっと変な笑い方をする。
「何だ?」
「この色男。口紅ついてるぜ」
ルパンに言われ反射的に口元を拭えば、手の甲には赤い口紅が残った。
(…最っ低だぜ、本当に)
目の端で五右ェ門を見れば、この男らしくなんともいえない苦い顔をしている。
「ルパン、もうよいか?」
「ん?ああ、じゃあ明日はそういうことで頼むわ」
渡された資料をくるくると巻き、五右ェ門は席を立つ。
「では先に休ませてもらうぞ」
すいっと次元の脇を通り、自室へと戻っていった。
間が悪いとはこのことかもしれないが、情けなさすぎてため息も出やしない。
やり場のない自己嫌悪にさいなまれながら、次元はまた無意識にポケットを探っていた。
【なかがき】
煮詰まりガンマンが、行動に出る回がスタートです。ついに始めてしまいました。
でも1回目の今回はいじいじと全く男らしくないです。
一応全6回の予定なので、気長にお付き合いいただければ幸いです〜
'10/06/08 秋月 拝
追記
The location of pain;"痛みの所在"と訳していただければ幸いです。
英語に弱いくせに英語を使いたがる管理人なもので、異論があるようでしたらバシバシ仰ってくださいませ(汗)