潮騒

 もし誰かに、なぜルパンのような泥棒と行動を共にしているのかと問われたならば、きっと即座にこう答えただろう。
 この男と仕事をすると美味い煙草を吸える。
 次元大介にとって、ルパン三世という男と仕事をすることの理由はそれだけだった。
 それ以上でも、それ以下でもない。ただの、仕事仲間だった。
 それだけの、はずだった。

 怪我が治るまではしばらく仕事はしない。お前はどうする? ルパンにそう聞かれ、次元は特に断る理由もなかったからついていくことにした。右肩の傷は浅くはない。次元とて1人で仕事を受け負えるほどに本調子ではなかった。
 ルパンのアジトは南フランスはニースにあった。なんでも爺様の代からの持ち物なのだという古風な屋敷は海のすぐそばに立っていた。メインの観光地からは少し離れたところにあり、バカンスシーズンにも関わらず酷く静かだった。
 退屈な毎日。ルパンはなにやかにやと妙な機械を組み立てては壊し、壊しては組み立てを延々と繰り返していたが、さしてやることもなく手持無沙汰な次元は、潮騒に耳を傾けながら日がな一日惰眠を貪るだけの生活に明け暮れていた。

「おーい、買い物行くけど一緒に行かねぇか?」

 時折、機械いじりに飽きると、ルパンはそうやって次元を誘う。だが次元がそれに応じることは一度もなかった。

「行かねぇよ。めんどくせぇ。ガキじゃあるまいし買い物ぐらいひとりで行って来いよ」

 帽子を顔の上に乗せてソファに寝そべったまま。ルパンの方を見ることもなく言いきった。

「つれねぇの。そんなに寝るばっかしてると、そのうち目ン玉溶けちまうぞ?」

 突然顔の上の帽子が取られた。眩しい日差しに顔をしかめれば、細めた目の端にルパンが笑っているのが見えた。

「余計なお世話だ。怪我を治すにはこれが一番なんだよ」

 返せよ。顰め面のまま見上げる。だが、伸ばした手は帽子には届かなかった。何を考えているのか。ルパンはくるくると帽子を弄びながらじっと次元を見下ろしてくる。

「…何だよ?」

 至近距離で帽子もなしに見つめられるのは落ち着かない。不機嫌を隠しもせずじろりと睨みあげてやると。

「火傷、まだ痛いか?」

 少し首を傾げながらルパンがそう問うた。

「痛かねぇよこんなもん。どっちかってぇとこっちの方がよっぽど痛ぇな」

 少し抉れた傷の残る右頬をとんとんと指先で示せば、ルパンは『まぁそりゃそうだな』と苦笑した。
 薄桃色の右頬の傷。そっと伸びたルパンの手が一瞬ためらうような素振りを見せた後、優しく薄皮の上をなぞった。

「!!」

 思わなかったルパンの行動に、次元は反射的にその手を力いっぱい払い除けていた。ソファから跳ね起きて眼光鋭く睨み付けてやるが、目の前の男はちょっと困ったように笑っただけ。
 落ち着け。ルパンがスキンシップ過剰なのは今に始まったことではない。怒っただけ無駄であるということをようやく理解しかけていた次元は小さくため息をつき、吐き出しかけた言葉を飲み込む。無駄なことに労力をかけるほどにマメな人間ではないのだ。

「…珈琲、煎れてくる。お前も飲むか―――――!?」

 今のはなかったことにしよう気にせずにおこう。そう言い聞かせて帽子を奪い返した次元の腕を突然ルパンが掴んだ。何を。思った瞬間、世界が反転した。

「!?」

 今まで寝ていたソファに押し倒されたのだと気付いた時には、身体の上に圧し掛かられ動きを封じられてしまっていた。パサリ、と、勢いで飛んだ帽子が床に落ちる音がする。

「おい、何のつもりだ!?」

 降りろよ馬鹿! 理解不能の展開に、次元は動揺を隠すこともできずに声を荒げた。

「降りろ!」
「やだ」
「やだじゃねぇ! 殺すぞ!?」
「へぇ? やれるもんならやってみろよ」

 にやりと不敵な笑みを浮かべるルパン。売り言葉に買い言葉。かっとなって、次元は押さえこまれた苦しい体勢の中で腰のマグナムに手を伸ばした。が、いつの間にかそこに愛しの銃<おんな>の姿はなく、はっとして視線を上げればそれはくるくるとルパンの手の中で弄ばれていた。抵抗の術を奪われぎりりと歯噛みする。ヤケクソで拳をつきだしてみるが、体制不利で簡単に止められてしまった。

「そう簡単に殺されるわけにはいかねぇからな」

 ガシャンと重い音を立てて、マグナムは次元の手の届かぬ床の上に放られた。

「なんのつもりだ!」
「なんだと思う?」
「知るか! いいからそこから降りろ!!」

 噛みつくように叫ぶ次元を見降ろし、ルパンは次の瞬間とんでもないことを口にした。

「俺さぁ、お前とセックスしたいんだよね」
「―――――は!?」

 悪い夢でも見ているのかと思った。いや、そうであって欲しいと思った。
 だが、抓ってみた頬は確かに、痛い。

「じょ………冗談…だろ?」

 引き攣った声で問い返す。そうだこれは、いつものルパンの悪い冗談だ。俺を試しているに違いない。そう言い聞かせる。だが。

「まさか。冗談にしちゃタチが悪すぎるってもんさ」

 俺はそこまで悪党じゃない。次元の期待を打ち砕くかのように、ルパンは至極真顔で肩を竦める。

「俺は本気だぜ、次元」
「そんな……」

 呆然とする次元の髪をルパンの細い指が優しく梳いた。その感触に、その体温に、俄然真実味を感じてしまい、次元は視線を漂わせて狼狽える。

「駄目だ。やめろ、離せ」

 なんで。と真っ直ぐな瞳が不思議そうに光る。なんでもクソもあるか。

「だって可笑しいだろ。俺、男だぞ?」

 我ながら馬鹿みたいなことを口にしていると思う。わかり切った事実。生まれてこの方男の求愛を受けたことなんかない。半ば怒り口調で答えると、あっさりと『知ってるよそんなこと』と返される。

「飲んでるのか!?」
「俺、素面だぜ。酔ってこんなことできるかよ」
「素面でこんなことする方が可笑しいだろうが! 大体お前ゲイなのか? 違うだろ!?」
「当たり前だ。俺はかわいこちゃんが好きなの。お前だって良く知ってんだろ」
「ああ知ってる。けど俺だってそうだ。野郎と寝る趣味なんかねえよ」

 だから離せよ。そう懇願したが、ルパンは『やだ』と言い、ますます体重をかけてくる。その状況に混乱するしかなく、恥も外聞もなく暴れ回り、なんとか逃げ出そうともがいているうちに、ルパンの足の怪我を蹴飛ばしてしまっていた。

「―――っ!」

 流石にこれには顔を顰めたルパン。その一瞬の隙を突いて、次元は身体の下から抜け出し、なんとか壁際まで逃げて距離を取った。

「いっ…てぇ…おま…今のはマジ…ちょっとは手加減しろっての」

 悶絶するルパンだが、それを見下ろしても次元にはそれを気遣う余裕もない。部屋の壁を背にそれ以上逃げることも忘れてただただ混乱して言葉を紡いだ。

「だって…だって可笑しいだろこんなの。俺みたいな野郎抱くのに何の意味があるんだよ? 嫌がらせならそう言えよ。いつだってこんなとこ出て行ってやるよ。邪魔して悪かったって。もう二度とお前とは組まねえからよ」

 だが、ルパンはその言葉には答えない。しばらくじっと次元を見詰めた後。

「俺さあ…お前が撃たれた時…いや正確には撃たれたわけじゃねぇけど…あんまりお前が死んだふりが上手いもんだから、ほんとに死んじまったんじゃねえかって思ったんだぜ?」

 淡々と紡がれる声には何の感情は浮かんではいない。だが。

「…お前…あの時もそんな顔してたのかよ?」

 黒い瞳に浮かんでいたのは深い深い悲しみの色。どんな時も余裕ぶって大胆不敵な男の、今までに見たことのなかった表情を見せられ、次元は思わずそう返していた。死体のフリをしていたその時に、自分を抱え込んだ男はそんなにも切ない顔をしていたのだろうか。それは、奴を騙すための演技だったはずではなかったのだろうか。

「さぁねえ」

 次元の追及をふっと唇の端で受け流し、ルパンは笑う。

「俺はなぁ、次元」

 動けずにいる次元へとルパンがにじり寄ってくる。逃げられない。その黒く深い色をした大きな瞳から視線を逸らせない。伸ばされた手が頬の傷をもう一度なぞり、それから大きな掌がゆっくりと頬を包み込む。熱い。逃げられない。

「俺のものにしたいんだ。お前を」

 真剣な目が、指が、掌が、言葉が。次元を捕えて離さない。
 逃げなければ。本能が警鐘を鳴らすが、蛇に睨まれた蛙のように、身体はピクリとも動かない。
 せめてもの抵抗にぎゅっと目をつぶった次元。その唇に、柔らかなものが触れた。
 むせかえるほどのジタンの濃い香り。器用な舌に吐息までもを絡めとられて、息苦しさのあまり縋るようにしてその青いジャケットを握りしめた。
 ようやく唇を離されて、肺いっぱいに空気を吸い込んだ。荒くなった呼吸を悟られまいと、平静を装ってルパンを見上げる。
 今度はルパンの唇が頬へと近づく。薄く皮膚の張った傷跡をぺろりと舐められた。まるで親猫が子猫にするように。その傷を癒そうとでもするように丹念にそこを舐められて、ただそれだけの行為が酷く居たたまれなくて、次元はその頭を押し返し腕で顔を隠した。
 何を考えているのかわからない。一体自分をどうしようというのだ。ビジネスパートナー。自分たちの関係はそれ以上でもそれ以下でもない。いや、仮にもっと親密に相棒と呼べたとしても、やっぱりこんなのは間違っている。こんなのは。
 俺はただ。




 ただ、美味い煙草が吸いたいだけのはずだったのに。




「ね、次元」

 そっと腕を外された。

「俺に、頂戴」

 お前を全部。
 優しい声が、深い色の視線が、次元を追いつめてくる。

「…嫌だ」

 蚊の鳴くような声で答えた。

「なんで?」
「俺は…」

 怖い。惹かれてしまうことが。その魅力に抗えないことが。これ以上近づいてはいけないと、本能が警告する。これ以上境界を踏み越えたらもう戻れなくなる。どこへ? 築き上げてきた、独りきりの世界へ。

「もう遅いぜ」

 だってお前は。

「もう逃げれねえもの」

 それはまるで悪魔の囁きのようにも聞こえた。

「次元大介」

 耳元に寄せられた唇が、低い声で名前を呼ぶ。

「――――――俺を、拒むな」

 かくりと全身から力が抜けた。
 ずるずると崩れ落ちた次元に、またゆっくりとルパンの唇が降ってくる。

 俺は、どこで間違ってしまったのだろう。
 俺は、どうしたらいいのだろう。




 もう聞き慣れていたはずの潮騒の音が、やけに大きく聞こえた。

Fin.

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