不眠症

「…さぁて、仕事のお時間だぜ」

 アジトの外にハーレーのエンジン音を聞きつけた俺はゆっくりとソファから身を起こした。丸二日以上一睡もしていない割に頭は冴えている。まぁほとんど気力だけでもたせてるようなもんなんだろうけど。
 そんな俺の隣で黙々とマグナムをメンテナンスしていた次元だったが、スイングインで弾倉を戻し、重い口を開く。

「…ほんとにやるのか?」
「当然だろ?」

 にやりと笑った俺とは対照的に、気乗りしない様子の次元は不安そうな気配を隠そうとはしない。帽子の下からちらりと覗いた目にはくっきりとした隈。まぁ俺も大差ない顔をしてるんだろうけど。

「大丈夫だ心配すんなって。この俺様が失敗するわけねぇだろうが」

 すっかり冷めてしまった泥水みたいに濃いコーヒーを啜り、ぱんっと勢いよく己の両頬を叩く。わざとお気楽な調子で言ってみるけれど、次元の心配はなくならないみたいで、咥えていた煙草のフィルターを噛みしめて何とも言えない表情になった。

 そんな顔してみたってダメよ。ここが正念場なんだから。お前の為にも、絶対、諦めるわけにはいかねぇんだ。

 それは、二日前。
 新しい仕事に取り掛かることになった俺たちが、新しいアジトへ拠点を移したことに端を発する。
 次元とはコンビを組んで数か月。そろそろコンビ結成挨拶代りのでかい仕事をしたい。その前の肩慣らし的な気軽い仕事。とはいえお仕事だから真面目にやりますよ? 侵入の計画から逃走経路の確保まで全部完璧に計画を練ったんだけど、誤算が一つだけ。

「悪い。今回の仕事は広いアジトが用意できなかったんだ」

 小さな田舎町の古びたアパートメント。駐車場に車を停めた時からその学生寮みたいな外観に眉を顰めていた次元だったけれど、鍵を開けて部屋の中を見た瞬間に、それはもう、この世の終わりとでもいうような顔をしてみせた。
 薄いドアを開けてすぐ続く廊下には、お湯を沸かすぐらいしかできないんじゃないかと思うくらい申し訳程度のキッチン。その向かいのアコーディオンドアはユニットタイプのバスルーム。6帖ほどのワンルームの部屋の中には、簡素なシングルベッドと革張りの二人掛けソファ、そして小さな丸いローテーブルがあるのが見える。本来一人暮らし用の部屋だ。男と女が愛の巣にでもするんならまだしも、赤の他人の男二人が顔を突き合わせて寝起きするには確かに狭い。

「この話、なかったことにしろ」

 それにしても次元の嫌悪っぷりは酷い。一流ホテルのスイートなんか取ろうものなら『落ち着かねぇ』とか言って、わざわざ部屋の隅にソファを移動させて自分の定位置にするような男だ。衣食住の住の部分に関していえばほとんどこだわりがなくて、『寝れさえすればいい』ぐらいのスタンスなんだとばかり思ってたから、この反応は意外。荷物も置かずに即座に踵を返すから、慌てて俺はその腕を引く。

「ちょっとちょっと。それはないでしょ。仮にもプロが『アジトが狭いから』って理由で仕事を降りるなんて前代未聞だってば」
「勘違いするなよ? 狭いのが問題なんじゃねぇ。お前さんと四六時中寝る時まで一緒ってことが問題なんだ」

 ちらりと肩越しにこちらを振り返り、目深に被った帽子の下で唸る。それはそれで酷い物言い。
 行動を共にするようになって数か月経つけれど四六時中一緒ってことはなくて、ちゃんとプライバシーを尊重して寝室は別々にしてたし。今回みたいなのは確かに初めてなんだけれど、そこまで嫌がらなくったっていいじゃないの。

「何それ。次元ちゃんてば俺のことそんな嫌いなの?」

 俺様傷ついちゃう。唇を尖らせ潤んだ瞳で次元を見上げてみたら、『気持ち悪い顔すんな』とにべもなく一蹴された。あらら、つれない。

「…そういうことじゃねぇ。俺もお前も共同生活に向かない性質だってのは分かってるだろ」
「それは否定しねぇけど。コンビ組んで仕事する以上、こういう事態にも慣れとかなきゃいけないデショ? 何があるかなんてわかんないんだから」

 違う? と問えばむうっとヘの字口で押し黙る。
 次元には内緒だけど、実を言えば広いアジトを用意できなかったなんて真っ赤なウソ。
 コンビを組んで数か月。仕事に関してはそれなりに上手くやっていたけれどプライベートな部分ではまだまだお互いの距離が測れていなくて、もっと仲良くなりたい俺とこれ以上自分の領域に俺を入れたくない次元の間で、表面上には出さないものの無言の攻防戦のようなものが繰り広げられていた。次元に対して下心もあったりする俺が、なんとか二人の距離が縮まればいい閉ざされがちな次元の心が開かれればいいと、必死悩んだ結果の苦肉の策だったのだ。

「今日を入れて3日! 明後日の仕事までの3日間だけだから!」
「けどよ…」

 なお渋る次元に、俺は食い下がる。ここで諦めたのでは全てが水の泡だ。

「俺がソファで寝る。お前には迷惑を絶対、ぜぇーったいにかけないから!」

 だからお願い。ぺこりと頭を下げた。すると頭上で次元の心が揺らぎ始めるのが手に取るようにわかる。頼まれれば嫌とは言わない義理堅い性格を利用した形だよな。俺ってずるいと自分でも思うけど、背に腹は代えられないってこと。

「……」

 俺のお願いが功を奏したのか。次元は無言のまま俺の手を振り切ってずかずかと部屋の中に入ると、床に荷物を放り出してベッドに倒れ込む。体重を受け止めたベッドのスプリングがぎしぎしと音を立てて軋むのが聞こえた。

「次元ちゃーん、寝るんなら靴ぐらい脱ごうよー」
「うるさい、黙れ」

 低い声で俺を一喝すると、そのままむっすりと黙り込んでしまった。仕事が終わったら何かご機嫌取りを考えないといけないなぁ。そんなことを思うけど、同時に、疑念と漠然とした不安が浮かび上がってくる。次元は、間違いなく俺に何かがばれるのを恐れている。だが何を? 俺に何を隠しておきたい? 無言で寝そべる次元の姿を見ているだけなのに、無性に落ち着かない気分になり、ちりちりとした不穏な感情が心の奥を焦がしていく気がする。

「…ま、いっか」

 そのうちわかるでしょ。努めて前向きに自分に言い聞かせ、俺は玄関を閉めた。





 理由は、予想していたよりも早くわかることになった。





 その日の夜。ユニットバスからのガタガタという物音で俺は目を覚ました。薄ぼんやりと発光する壁掛け時計の針は4時を指そうかというあたり。まだ眠りについて何時間も経っていない。ソファから身を起してちらりとベッドを見やったがそこに人影はなかった。

「…次元?」

 呼びかけに返事はない。気配そのものは次元に間違いないのだが、こんな時間に一体何をし始めたのか。暗闇の中、薄い壁越しににざぁざぁと響くのはシャワーの音らしい。そして、それに混じって微かに聞こえてくる低い嗚咽交じりの唸り声。

「…次元?」

 やっぱり返事はない。少しずつ暗がりに目が慣れてきた。部屋からバスルームまでの道のりの途中にジャケットと帽子が脱ぎ捨てられてるのがぼんやりと見えた。俺はそっと足音を忍ばせ物音のする方へと向かう。

「次元?」
「…っ!!」

 壁を伝って手探りで探し当てたスイッチ。パチンとバスルームの明かりを入れると、その刹那、強烈な殺気と共にマグナムの銃口が俺の眉間に向けられていた。

「…何、してる?」

 白熱灯の暖かい色の光とは対照的にその空気は殺伐としていた。シャワーで流しきれなかったのか僅かに残る胃酸の饐えた匂い。床に座り込んで風呂桶にもたれ掛かり、ワイシャツもスラックスも着たままシャワーに打たれてびしょ濡れになっている次元は、あまりに普段の姿からはかけ離れた容貌になっていた。大粒の雫を垂らす髪。濡れた服はぴったりと肌に張り付き身体のラインをむき出しにしている。赤く充血した眼はこちら射殺さんばかりにこちらを睨み付けているが、僅かに焦点の合わない目は俺ではないどこか別のところを睨んでいるようでもあった。手の血色を失うほどに握りしめられたグリップ。だが俺に向けられた銃口は微かに震えていた。

「落ち着け、次元。俺だ」

 努めて冷静に言い伸ばした手でシャワーを止めようとしてようやく、勢いよく流れるそれが冷水だったことに気付く。

「馬鹿野郎!! 何やってんだお前風邪ひくぞ!?」

 慌ててお湯の蛇口を捻りなおすと冷えたバスルームにもうもうと白い湯気が立ち込めた。吐くものなんかもう何もないだろうに、それでも壁に縋って嗚咽を漏らし続ける背を、俺もずぶ濡れになりながら必死で擦る。なんとか状態の落ち着いた次元を温めさせて二人して着替のできた頃には、白々と夜が明けていた。

「寝れねぇんだよ…」

 ベッドの上に座り込んで毛布にくるまり、俺の作ったホットウイスキーを舐めるようにして飲みながら小さく嘆息する次元。十分に温まったはずなのにその顔色は悪く憔悴しきっていた。
 聞けば、もうずっとなのだという。
 人の気配があると寝れない。それだけならまだしも、極度の緊張感の中で無理やりにでも眠りにつけば、必ずと言っていいほど悪夢を見て飛び起き吐くのだという。酒や睡眠導入剤の力を借りても結果は同じ。むしろ酷い結果を招いたという。

「なるほどねぇ。それで寝る時まで一緒っていうのが嫌だったわけ」
「迷惑かけると…思ったんだ」

 実際、こうだしな。そう言って次元は自嘲気味に唇を歪めた。次元にしてみれば一番見られたくない姿を見られてしまっているのだ。こうなることが分かっていたから俺と距離を取ろうとしていたのかと思うと、酷くやるせない。

「"死神"が聞いて呆れるだろ?」
「"死神"だってただの人間だってことだろ」

 俺の言葉に次元は乾いた笑いを漏らすだけ。何かを悟りきったような諦めたようなその表情が、俺の胸を抉る。お前が欲しくて得た名前でもないのに、その名前に絡めとられて身動きもできなくなって呼吸すらもままならなくなってんじゃねぇか。

「…どんな夢、見るんだ?」
「…いろいろだ…その…昔殺した奴に殺されたり……」

 中身を覚えていなくて、起きた瞬間に潰されそうな恐怖だけが残っていることも多いらしい。自分の叫び声で飛び起きることもしばしばとか。かなりの重症っぷりだ。
 人の気配に敏感というのはある意味職業病で、致し方ない部分も大きい。襲われたって気付かないような鈍感野郎では生き残ってはいけないのだから、命を守るための必要な反応ともいえるだろう。もともとの性質に輪をかけたのはおそらく、無意識下にある良心。悪夢は次元の『良心の呵責』なんだろう。残念ながら、人殺しを生業にしてまともで居られる人間はいない。裏世界で"死神"とまで呼ばれ上りつめたこの男でさえも。
 次元は今瀬戸際にいるのだ。狂気という、一度堕ちれば二度と這い上がれない深淵の瀬戸際に。

「たかが夢だって分かってんだ。でも…」
「寝るのが怖い?」

 問えば僅かに頷く。

「…頼む。わがままを言ってるのは百も承知だが、このままじゃ仕事どころじゃねぇ。一人ならまだマシなんだ。お前にも迷惑をかけるし、別行動をさせてくれないか」

 固い声で懇願する次元。追いつめられたような。苦渋の色を滲ませた瞳が揺れながら俺を見詰めてくる。

「ダメ」

 即答すると次元は目を見張った。断られるなんて微塵も思ってなかったんだろう。だけど、そんな今にも壊れそうな顔してる奴を一人にしてなんかおけるもんか。

「なんで…!」
「だってお前は俺の相棒だろう?」

 畳みかける次元にぴしゃりと言い切った。『違うか?』反対にそう問い返せば、やっぱり次元はぐっと言葉に詰まった。この言葉に動揺するということは、次元自身が俺の相棒である自分を認めてくれているという証拠。なら俺もその思いに応えないといけないと思うのだ。苦しむ次元の為に、俺は何ができる。

「今はそれでいいかもしんねぇけど、これからずっとやっていくのにそれじゃダメだろ」

 こんなことがなければ、きっと次元はいつまでも一人で抱え続けていただろう。誰も寄せ付けずに一人で苦しんでのたうち回っていただろう。そしていつか壊れていたかもしれない。
 今なら間に合う。"死神"と呼ばれた男を俺の傍に留めておける。人の心を残しているうちに、その重荷を減らしてやれる。

「そりゃあそうだが…」

 じゃあどうしろっていうんだ? 心細そうな表情で問う次元に、俺はにぃっと笑った。

「ショック療法…なんてのはどうだ?」

 そして、今に至るというわけ。
 夢を見るということはそれだけ眠りが浅いということ。人の気配を過敏に感じ取ってしまうのも同じ。ならば夢を見る隙も与えないぐらい、人の気配も察知できないくらい深い眠りに落ちればいい。精神も肉体も限界までくたくたにして気絶するように眠ってしまえば。次元の場合、悪夢を見るかもしれないという恐怖が更に神経を過敏にして眠りを浅くしてしまっている。そのせいで結局夢を見やすくなるという負のループがかかり、最終的に眠ること自体に恐怖を抱いてしまっているのだ。だから、一度でも夢も見ずに寝れるということを体験してしまえば気分的にかなり楽になるはず。とはいえ、強引な論法で導き出したかなり過激な方法だから、間違ってもほかの人にはお勧めはできねぇけど。

「信じられない! 寝ないでこんな仕事しようなんて馬鹿以外の何者でもないわよ。なんであたしがこんなことに巻き込まれなきゃなんないの!? もう金輪際あんたたちとは仕事しないんだから!!」

 とはいえ案の定というべきか。
 寝不足で集中力を欠いたままで突入した仕事は計画こそ完璧だったにも関わらず散々な結果で、擦り傷程度でお目当ての宝石が盗み出せたのはほとんど奇跡に近い。まぁその唯一の釣果である宝石も、俺たちの馬鹿な行動に呆れた不二子ちゃんに横取りされちゃったんだけど。腹も立つけど今回は迷惑料として受け取ってもらっとこう。それくらいでご機嫌取りできるならまぁ安いもんだし。
 それに不二子ちゃんは俺たちのこと馬鹿だって言うけど、俺だってちゃんと考えてるのよ? 今回は警備にとっつぁんが絡んでなかったからこんな馬鹿げたことができたんだ。これがとっつぁん相手だったら100%逃げきれてないもんね。
 とにかくなんとか地元警察のパトカーを振り切って、車飛ばしてアジトに舞い戻ったのは明け方近くなった頃。もう何時間起きてるんだかも定かじゃなくなってきた。ぐわんぐわん視界がまわるし足元はふわふわ覚束ないし頭もガンガン痛い。

「…次元ちゃん生きてるー?」
「…おう。なんとかなー」

 咥えた煙草に火をつけることもなく呻くように返事をする次元。俺と大差ない感じみたい。なんとか車を降りて二人して玄関入ったところで崩れ込むようにしてへたり込んで、背中合わせで寄りかかってもう駄目。立ち上がるどころか靴を脱ぐ気力すらもない。座り込んだ途端に恐ろしいほどの疲労が圧し掛かってくる。

「あー…ごめん、俺様、もう限界」

 眠気と疲労に飲まれて、ずるずると廊下に崩れ落ちる。その隣で次元が何か言ったような気がしたけれど聞き取れず、そこで、俺の記憶はぷっつりと途切れた。


 次に気が付いたのはそれから相当時間がたってからだったようだ。


 一瞬自分がどこで何をしているのかすら把握できなくて慌てる。カーテンを引いていなかった窓から差し込んでいるオレンジ色の光は夕陽だろうか。
 冷たい板張りの廊下に長時間倒れ込んでいたせいで、身体中がみしみしと軋むように痛い。唸りながら身を起こすと、隣にはごろりと横たわった黒い影。

「…次元ちゃん?」

 倒れ込んだ拍子にでも脱げたのか、黒いボルサリーノが少し離れたところに落ちていた。少し身体を丸めるようにしている次元が眠っているのだということは、規則正しく上下する肩を見ればわかる。乱れた前髪が降りた横顔は思っていたよりも随分幼く見えた。うなされる様な気配もない穏やかな寝顔を見下ろしながら、俺はキッチンに寄りかかって咥えた煙草に火をつける。紫煙がゆったりと天井へと昇っていった。

「ん…」

 俺のたてた物音に少し身じろいだものの次元が目を覚ます様子はなく、またすぐにゆっくりと規則正しい穏やかな寝息を立て始めた。それだけのことがなんだかめちゃめちゃ死ぬほど幸せで、俺は頬が緩むのを抑えられない。

「…死神…か」

 残酷な名前だと思う。それを光栄と思うのは、心の壊れた殺人鬼だけだ。
 次元の過去に何があったのかは知らない。これからも多分聞くことはないだろうとも思う。それは次元にとって苦痛以外の何物でもないだろうから。
 殺し屋が大嫌いなこの俺が、よりにもよって"死神"の名を持つ殺し屋を相棒に求めたのは、この男が真の意味での殺し屋ではないと直観的に悟っていたからだ。人を殺す恐怖も罪悪感も知っている男。そして良心という名の重圧に必死で耐えようとしている男。初めて出会った時から、俺の目に、次元大介という男はそう見えていた。孤独の中で不安と恐怖と良心に苛まれる日々がどれほど恐ろしいか、俺も知っている。だからこそ次元にはその重荷を降ろして欲しいと思ったのだ。こいつにそんなものは似合わない。
 今はまだ過去を完全に断ち切ることは難しいかもしれない。その過去を100%なかったことにしてしまえるわけもないことも分かっている。でもいつか、本当に次元が悪夢に怯えない日が来ればいい。暗い過去を思い出しても、今日みたいに俺の隣で穏やかに眠ってくれる日が来ればいい。

「ゆっくりおやすみ、"次元大介"」

 くしゃくしゃと長い髪を撫でて俺は笑う。その指の下でまた小さく次元が身じろいだ。
 部屋の中にはいつしか夕闇が迫ってきていた。

Fin.

【あとがき】
久々の更新はルパン様の隣で無防備に眠る次元ちゃんが書きたかっただけのお話。
最後まで読んでくださってありがとうございました!

'13/06/20 秋月 拝

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