次元が、風船みたいに宙に浮く奇妙な病気にかかった。
往診に呼んだ馴染みの医者曰く『突発性風船症候群』という病気らしい。何だそりゃ。いやまぁ、確かに今の症状を端的に表したわかりやすい病名ではあると思うけれど、なんだか酷く胡散臭い。全く聞き馴染みのない病名に首を傾げている俺に向かって、医者は、『知らなくても無理はない。この病気は今までに世界中で3例しか報告のない奇病中の奇病だ』と言った。
俺としてはその3人がその後どんな人生を送ったのか非常に気になるところではあるけれど、とりあえず今はそれどころではない。正に風船よろしく天井に浮かぶ次元は、どうやっても自力では地面に降りてくることができないのだ。
有効な治療方法とか特効薬とかはないのか? これじゃ仕事どころか日常生活にも支障が出るだろ? そう詰め寄った俺に、医者は肩を竦めて見せる。
残念だが諦めた方がいい。何しろ3例しか症例がないんでろくに症例研究もされとらん。今の医学で解明できないんじゃ、対処療法すら打ちようがないだろう? まあせいぜい飛んでいかないように紐を括り付けとくことだな。
そう言って、ご丁寧にわざわざ持ってきたのだろうロープを診察鞄から取り出した。
ごめんなあ、ルパン。
医者の差し出したロープの先を受け取りながら、天井近くにふわふわと浮かぶ次元は眉尻を下げ困ったように笑った。
何だよ。笑ってる場合じゃねえだろ。お前死ぬまでそうやって風船みたいに浮かんどくつもりか? 人の心配もよそにへらへらしている次元が、俺は酷く腹立たしかった。
*
ことの起こりは1週間ほど前に遡る。
とはいえ何か思い当たるような原因があったわけじゃない。それまで普通に生活していた次元が、ある日突然宙に浮くようになったのだ。
常に十数センチ床から浮いた奇妙な状態。物理学者や生物学者が見たら卒倒しそうな光景に、だが当の本人はそれほど驚きもせず参ったなあとぼやくばかり。
そんな状況に泡を喰ったのは俺の方だ。これでは仕事はおろか日常生活だってままならない。
重石を持たせてみたり、特製の磁石を内蔵した特殊な服を着せてみても全く効果はない。ならばと椅子だのテーブルだのに括り付ければ、今度はそれごと宙に浮き上がる始末。そんなことをしているうちにどんどん床からの距離は長くなり、宇宙飛行士のようにふわふわと部屋中を漂うようになった。そして、数日のうちにはとうとう、天井がなければヘリウムガスのつまった風船のようにどこまででも飛んで行ってしまうような状態になってしまい、困って医者を呼んだというわけである。
とりあえず役に立たない医者を追い返し、辞典をひっくり返しパソコンと首っ引きで調べてみたけれど、どこを調べてもこの病気に関する資料は出て来なくて、3例の症例の患者がその後どうなったのかもついぞ分からなかった。どうすりゃいいんだ一体。こう手掛かりひとつなくては、IQ300天下のルパン三世と言えども頭を抱えるしかない。
だが、風船のようにロープを使って何日か生活するうちに、ひとつわかったことがある。それは、俺と手を繋いでいる間だけは、なぜか地面に降りて来れるということだった。
なぜそれに気付いたかというと、宙に浮かぶ次元に煙草を手渡そうとして俺の手が触れた瞬間に、次元がいきなり地面に落ちたからだ。しかもそのことに驚いて俺が手を離した瞬間、またもふわりと宙に浮いたからである。
ひとつの仮説を立てた俺は、アジトにやって来た不二子と五右エ門にも試してもらうことにした。手を繋ぐ相手が誰でもいいのなら、何かそのことをヒントに解決策を見出せるのではと思ったからだ。
しかし。
最初こそ良かったものの、すぐに手を繋いだまま次元と一緒に天井まで浮き上がってしまった不二子。反対の手を繋いで辛うじて地面に立っている五右エ門も、今にも浮き上がらんばかりになっている。
降ろしなさいよ何のつもりなの!? と喚く不二子に、次元が俺だって好きで浮いてるわけじゃねえ! と怒鳴り返し、最終的には大喧嘩に発展してしまった。
怒りの収まらない不二子をなんとか宥め、五右衛門に託して帰したものの、問題は何一つ解決しないばかりか状況は悪くなった。つまり、次元を地面に引き留めておくにはやはり俺が手を繋ぐしか方法がないのだ。
*
かくして俺は四六時中次元と手をつないで生活をする羽目になった。
飯を食う時も、風呂に入る時も、トイレの時も、寝る時も。片時も離さず。
お蔭で次元はとりあえず日常生活を送ることはできるようになったもが、片手で生活をするのがこんなにも不便だとは思わなかった。飯を喰うのにも四苦八苦し、風呂やトイレでは試行錯誤の連続だ。唯一あまり気を使わなくていいのは寝る時だが、それにしても寝ている間に手を離してしまって次元だけ天井に逆戻りしていることも何度もあった。その度に目を覚まして寝不足になった俺は、仕舞には業を煮やして手を繋いだまま紐でぐるぐる巻きにして寝る始末。
別に俺は宙に浮いててもいいんだぜ。手をつないだままの酷く不便な生活を申し訳ないと思ったのか、次元はそんなことを言うけれど、手を離せばひとりでトイレにも行けないんだから実際問題困るのはお前だろう? 俺がそう言うと次元は何とも困った顔になって口の中でもごもごと、だってお前が大変そうだ、と答える。自分のことだというのにどこか他人事のように考えているように聞こえた。そして何よりも、俺の顔色を真っ先に窺う様子が、俺には何故か酷く苛立たしかった。
次元がそんな態度になればなるほど、俺は意固地になって絶対に手を離さなかった。どんなに大変でも朝から晩まで日がな一日手を繋いだままでいた。
だが、赤の他人が四六時中一緒にいるというのはなかなかにストレスが溜まるものだ。
寝ても覚めても朝から晩まで手を繋いだままでいたのでは、気分転換に酒を飲みに行くどころかもちろん女の子と遊ぶようなこともできない。健全な成人男子にあるまじき清廉潔白すぎる生活は、普段不健康極まりない生活をしている俺の精神を逆に蝕んでいく。
どんどんお互いに苛々してきて、些細なことで喧嘩をするようになった。以前なら我慢できたようなことでも簡単にヒートアップしてしまう。ひとしきり罵詈雑言を浴びせまくって、お互い顔も見たくないような状況でも離れることができなくて、また更にストレスが溜まっていく。完全に堂々巡りだった。
*
お前さん、ちょっと飲みにでも行って来いよ。ある晩そう切り出したのは次元の方だった。次元が風船病を発症して1ヶ月程経った頃だ。俺は出たくても出れないから。そう言って、次元は無理矢理に俺の手から抜け出して天井近くに風船のように浮かび上がった。
固い声でそう言われてまた俺の怒りが火が点いた。何だよ。俺様がこんなに気にかけてやってんのに。どう考えたって大丈夫じゃないだろうが。相変わらずひとりじゃトイレにも行けない癖に。苛つきを隠さないまま言い放った。けれど次元は俺の手の届かないところへ浮かんだまま、頑なに俺の手を拒む態度を崩さないから、俺ももうどうでも良くなってしまった。勝手にしろよ。トイレに行けねぇって泣いて謝ったって知らねぇからな。
吐き捨てるようにそう言って、俺はジャケットを片手にアジトを出た。正直疲れきっていた。四六時中次元が浮かばないように気を使い、いつになったら治るんだろうと心配し、何もしてやれない自分を嘆く、そんな生活に。
街外れのうらぶれたバーのドアをくぐり片っ端から馬鹿みたいに強い酒を煽った。そこで知り合ったまあまあ可愛い女の子と、ベロベロに酔ったままホテルに雪崩れ込んだ。骨ばった男の手じゃない。柔らかい女の子の感触なんていつ振りだろうなぁ。快楽に溺れて、我を忘れて、眠りに落ちて。ふと気が付けば明け方近い時間だった。
少しは冷静になったらしい。二日酔いの頭の隅でぼんやりと、次元待ってるかなぁと思い出した。ホントに、トイレに行けないって泣いてるかもしれないなぁ。隣に眠る女の子を置いて、独りでホテルを出る。
帰ってみればアジトの中はしんと静まり返り、俺が呼んでも次元の返事はなかった。天井に浮いたまま器用に寝てるのだろうか。そう思って探してみる。玄関。台所。リビング。トイレ。風呂。どこにもいない。そこで少しずつ二日酔いの頭が覚醒を始める。どこへ行った? あんな状態で? 最後に寝室のドアを開けた俺は信じられないものを見た。開け放たれた窓。吹き込む冷たい風がカーテンを揺らしていた。
瞬時に醒めた頭。音を立てて身体中から血の気が引くのがわかった。
俺を置いて窓から飛んで行っちまったのか? 空の彼方に。転がるようにして窓枠に飛びつき、腹の底から根限り叫んだ。
「次元っ!!!」
見上げた空には、朝日に隠れ始めた星が薄らと浮かんでいるだけだった。絶望に打ちひしがれた。なんで俺はあの手を離したんだ。なんで怒りに任せて罵声を吐き、苛つきに任せて酒を飲み、女にうつつを抜かしていたんだ。後悔しても遅い。それでも呼ばずにはおれなかった。
「次元っ…次元っ!!!」
絞り出すようにして何度も叫んだ。すると。
るぱん…? 不意に、上の方から弱々しい小さな声が降ってきた。驚いて窓から身を乗り出してみると、屋根の端に次元の姿があった。いつからそこにいたのだろう。部屋着のままの姿は寒そうに凍えている。
「何してんだ馬鹿!!」
慌てて窓から飛び出して屋根に上った。いなくなるつもりで窓を出たけれど、風に流されて引っかかってしまったのだろう。しっかりその手を掴んだ。冷えた指先が弱々しく俺の手を握り返してきた。なんとか部屋に連れ戻して暖房をガンガンにかけた。ようやく温まってきた部屋の中、少し顔色の戻ってきた次元を見詰める。
お前、俺の前からいなくなるつもりだったのか? だから俺を追いだしたのか? 強い口調で問うと、それまでずっと黙っていた次元はすんすんと小さく鼻をすすり、ゆっくりと口を開いた。
お前はこんなに俺を助けてくれるのに、俺はお前に何にもできない役立たずだ。仕事どころか家事もできない。自分のことすらできない。役に立たないどころかお前の足を引っ張るしかできない。こんな俺はいなくなった方がいいと思った。自分一人では何もできないのが嫌だった。お前に迷惑をかけるのが何よりも嫌だった。
血色の悪い唇を噛みしめ俯いたままの次元。泣いているのだろうか。そう思ったけれど、覗き込んだ瞳は乾いていた。
追いつめたのは、俺だった。俺のプライドが。次元のためじゃない俺のための馬鹿馬鹿しいプライドが、次元を追いつめた。この状況が辛いのは俺よりも次元だというのに、俺はそのことに気付けなかった。
だから。
「…ごめん」
ごめん。何度も謝って謝って謝り倒した。そしたら次元も、悪いのはお前じゃない俺だって言って頭を下げた。いや、お前じゃないよ俺だ。そんなやり取りを何度も繰り返して、そしたらだんだん可笑しくなってきて、俺たちは顔を見合わせて笑った。そう言えば、こんなふうに笑ったのはいつ振りだろうなぁ。
ひとしきり笑って仲直りして、俺たちは一緒に布団にくるまって眠った。
*
その事件を境に俺たちは変わった。必要な時以外は手を離すことも多くなり、お互いに気を使いすぎず、距離を取ることを覚えた。必要なことはきちんと伝え、不必要なことは飲み込むことを覚えた。何故だか前よりも距離が近くなったような気がする。だがそれよりも良かったのは、何故だかわからないがほんの少しずつ、次元が地面に近くなってきたことだった。
それから、俺たちは男が2人手を繋いでいても白い目で見られることがない街へ引っ越した。アジトの中にばかり籠っていると気が立ってしまうから、たまには出かけたりもしないといけないな、と思ったのだ。最初のうちこそ手を繋いだまま人目に出るのを渋っていた次元だったけれど、思ったほどに世間が気にしないということを理解したらしい。数週間もすれば環境にも慣れ、2人で並んで買い出しに出掛けるようにもなった。
手を繋いだまま連れだって出掛けた街角で、道行く陽気なカップルに『おにーさんたちラブラブね』なんて声をかけられた。次元は煙草の端を噛み、俺はゲイじゃねぇぞ? と苦笑する。俺だってそうだよ。気にすんなって。俺がそう言うと次元は、そうだな。お前は世界一の女たらしだもんな、と笑った。言ってくれるじゃないの。俺も笑う。
その時だ。気を取られているうちに人波に飲み込まれ、俺たちの間を通り抜けようとした男によって2人の繋いだ手が離れた。
「あ…!」
反射的に、一度離れた手を上に向かって必死に伸ばした。まるで子供が飛ばした風船を取り戻そうとするかのように。
だが。次元は俺の目の前から離れなかった。俺の隣で、人波の過ぎ去った後の道端に、きちんと自分の足で立っていた。
「お前…治ったのか!?」
俺の問いに小さく首を傾げて自分の足元を見下ろし、そこでようやく気付いたようだった。あ、と驚いた顔。そしてそれからゆっくりと俺の方を見て、今度は何故だか今にも泣きそうな顔になる。その途端、また少しだけふわりと浮きあがりかけるから、慌ててその手を引いた。
その一連を見て、俺はようやく気付いた。この症状の原因に。
「お前…」
俺の手にしがみつく次元の帽子の下を覗き込み。
「もしかして………俺と手を繋ぎたかったの?」
びっくりしたように俺を見詰め返してくる黒い瞳は、珍しい程に泳いでいた。図星、なのだろう。
「もしかして…………寂しかった、の…?」
そう問いかけた途端。
今度はまるで猫のように髪を逆立てて首まで真っ赤になる。
そして。
「…………うん」
小さく小さく消えそうな声で頷くから。
俺は道の真ん中で力一杯次元を抱きしめていた。
次元が宙に浮くことは、それから一度もない。
Fin.