肩越しに見た世界には

 猫の目のような細い月はそろそろ山の向こうに姿を消そうとしている。漆黒の夜空には宝石箱をひっくり返したかのような星。都会ではその痕跡ですら見るのは難しい天の川でさえもはっきりと見えるのだから、いかにここの空気が澄んでいるのかが分かるというもの。とはいえ。

「俺にはこういうところは似合わねぇなぁ」

 昼間はかなり暖かくなってきたとはいえ、まだ少し冷たい夜風に吹かれながら、次元は苦笑を漏らす。
 アジトにしている小さな山小屋の屋根裏部屋から屋根へと抜け出し、酔い覚ましの真っ最中。本気で酒に酔うことなんか滅多にないけれど、今日は少しばかりペースも早く飲みすぎた。仕事の打ち上げと称してはじめられた酒盛りは延々とまだ下で続けられている。時折下の階からはルパンの笑い声や不二子の嬌声、五右衛門の声が聞こえて来ていた。
 頭上に燦然と輝く星空。それを美しいと思うような生活を送ったことはなかった。薄汚れたゴミだらけの街並み。排気ガスとドブの匂いのする空気。淀んだ目をした人々の織り成す喧騒と雑踏。それが自分の生きてきた世界。こうやって違う場所に身を置いてみて初めて、自分がどれだけあの場所に浸りきっていたのかを知るのだ。そして自分がどれだけこんな澄み切った環境に似合わないかということも。
 落ち着かない。この世界を美しいと思うだけの感覚は持っていても、それは理論で知っているだけの感覚だ。多分、心の底からの感情ではないその証拠に、この世界に浸りたいとは思わない。やはり自分のような人間は、あの汚れた世界のほうがよほど似合っている。
 清流に棲む魚がドブで生きていけないのと同じように、ドブを住処にする魚もまた、澄み切った水では生きていけないのだ。裏世界に身を置く自分はまさに汚れたドブで生きる魚そのもの。こんな澄んだ空気は肌に合わない。
 ジャケットから取り出した煙草に火をつけて空を仰いだ。ルパンはしばらくここにいるつもりのようだが、一人で先に街へ帰ろうか。そんなことを思いながらぼんやりしていると。

「次元てば、こんなとこにいたの」

 ひょいと屋根裏の窓から顔を出したのはルパン。身軽にするりと窓から抜け出すと次元の隣に腰を下ろし、そしてついでのように伸ばした手で次元の咥えた煙草を奪った。

「おい」
「いいじゃねぇの」

 いい感じに酒がまわっているらしくにこにこと笑うルパンに、次元はそれ以上は何も言えなくなる。

「五右エ門と不二子は?」
「ん、酔っ払っちゃって下で寝てる」
「それはいいけど不二子にお宝持って逃げられるなよ?」
「大丈夫大丈夫ここにあるからさ」

 ほら。そう言ってルパンは次元の前に大粒のダイヤモンドで飾られたブローチを掲げて見せる。今日の戦利品。『Shooting stars』と名づけられたそれは確かに流れ星の破片でもあるかのように燦然と輝く代物だが、月の隠れた星空の下では昼間の輝きをひそめていた。

「俺はお前いないから探しに来たの」
「そりゃどうも」

 奪われた煙草の代わりに新しく火をつけた。甘い香りを肺いっぱいに吸い込んで、それからゆっくりと夜空に吐きだす。
 本質的に。ルパンはこういう場所が好きなんだと思う。アジトにと選ぶ場所は街中であることよりもどちらかといえばこういう辺鄙な場所のほうが多い。それも景色がいい場所ばかり。それを第一条件にして物件を探してるんじゃないだろうかと思うくらいだ。
 美しいものを愛でることができる心を生来的に持った男だ。だからこそ人に愛でられないでいる芸術品を盗み出すことに意義を見出すのだろうが。だから、自分とは、違う。

「何考えてんの?」

 並んでただ煙を吐き出していると、不意に隣でルパンが口を開いた。

「…相棒ってのはツーっていえばカーだって言ったのは誰だ? 俺の考えてることぐらいお前さんにゃお見通しだろうが」
「まぁね。またどうせ下らないこと考えてんのはわかるけど」
「下らないだけ余計だ」

 面白くない、と、煙草の端を噛む次元とは対照的に、何が面白いのかルパンは笑い続ける。どうやら不二子と五右エ門に負けないくらいにはルパンも相当に酔っ払っているようではある。完璧に出来上がってんなこりゃ。そんなことを思っていると。

「なぁ次元?」
「なんだ?」

 いつの間にか短くなっていた自分の煙草の火を屋根に押し付けてもみ消し、ルパンがまた不意に名前を呼んだ。怪訝な顔でルパンを見やった次元の視界が突然反転した。

「な…!」

 咥えていた煙草が屋根の上を転げ落ちていった。背中には冷たい屋根の感触。抑え込まれた体にかかるのはルパンの体温と重み。そこでようやく状況を理解した。見上げた視線の先には焦点の合わないぐらい間近にルパンの顔と、そして、その向こうには雲一つない満点の星空。

「あ…」

 その、ルパンの肩越しに見える空を綺麗だと、美しいと、思った。思えた。その瞬間に落とされる、同じ煙草の味がする熱い唇。
 呆然とする間にすぐに唇は離れて、そんな次元を見下ろしてルパンはまたくすくすと笑う。

「何が見えた?」
「……お前」

 その肩の向こう側の空に。ルパンの内側にあるものを見た気がした。ルパンが見ている世界を見た気がした。いつか自分も世界をそんなふうに見えるようになるのだろうか。こんな空気が心地いいと思う日は来るのだろうか。
「そりゃそうだろ!」

 次元としては真面目に答えたつもりだったのに、ルパンは弾かれたように腹を抱えて笑い出す。やっぱり相当に酔っ払っている。

「黙れよもう。ほら、降りて寝るぞ」
「まだここにいるー!」
「風邪ひくだろ馬鹿」
「馬鹿っていうなよ馬鹿!」

 子供のように駄々をこねるルパンを小屋の中に入れながら、次元はもう一度空を振り仰いだ。
 盗んだダイヤよりも煌めく星。もうしばらくルパンと一緒にここに居ようか。そんなことを思いながら。

Fin.

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