鬱陶しい。
耳に痛いほどに鳴く蝉も、熱い風が吹くごとに一斉にざわめく木々も、火照った肌の上を流れる生暖かい汗も。
行き場のない苛々をぶつけるように小さく舌打ちをしてみるが、むろんそんなことで気分が晴れるわけもない。
大きく吸い込んだ空気は緑の匂い。その濃さにさえむせ返る。煙草と硝煙と薄汚れた埃の匂いに慣れた身体には、むしろこの清涼さが毒になるのではないかと、そんなことをふと思う。
「…まぁ、あいつにはこういう場所の方がお似合いだけどな」
木々の向こうに見え始めた五右ェ門がいるという山寺に視線を流し、次元は大きく溜息をついた。
車の通れない急な山道を登り始めて1時間近く。俗人の近寄らないようなまさに辺境とも言うべきようなその山寺に五右ェ門がいることを知ったのは、つい一昨日のことである。
『なー次元。悪いんだけど五右ェ門ちゃん迎えに行ってやってくんない?』
藪から棒にルパンにそんなことを頼まれ、次元は眉間に皺を寄せた。
『何で、俺が』
思わず問い詰めるようなキツい口調になるが、返されたほうのルパンは気にも留めていないのかへらっと笑う。
『次の仕事あいつの手がいるんだよね〜』
そう言って指し示された地図は、今自分達がいる場所からしたら地球の裏側のような、日本の山奥。
『ちょっと迎えに行ってやってよ』
だがその口調はまるで、そのへんのコンビニで煙草買ってきてと頼むのと変わらないほどに軽い。
『ここから日本までどれだけかかると思ってんだ? あいつだってガキじゃねぇんだ。連絡すれば自分で帰って来るだろう?』
自分の言っていることはいたって正論だと思う。わざわざ迎えに行く時間と労力を考えたら、どうやったってその方が手間になるのだ。
『いやまぁついでにお前に途中で2・3用事を頼みたいからなんだけっども…なんでそんな嫌がるのよ。もしかして五右ェ門と喧嘩でもした?』
『…! ンなわけ!』
ほんの一瞬。思いもよらなかったルパンの反撃の言葉に次元は言葉を失ってしまい、その僅かな逡巡がルパンの質問を肯定することになってしまっていた。こうなってはもはや何を言っても通じないだろうと、開きかけた口を諦めたように噤めば。
『ったく。世話の焼ける奴ら!』
ルパンは酷く面白そうに、ケラケラと大きな口を開けて笑う。
『それなら尚更お前に行ってもらわないとなぁ?』
『なんで…!』
『そんな状態じゃ、俺が声かけたってあいつが帰って来るわけないデショ?』
確かにその通りかもしれない。だが。
『俺が行ったからって大人しく帰って来るとも限らねぇだろ!?』
『はいはい、文句言わずに行くの! 一緒に帰ってこないとアジトに入れてやらねぇぞ! 後で仕事の用件はメールしとくからなー』
連絡用の携帯と飛行機のチケットだけをポケットに放り込まれて、そのまま強引にアジトから放り出された。目の前で閉じられたドアを睨みつつも、次元は煙草の端を噛み締めたまま途方にくれるしかなかった。
そんなやり取りを思い出して、また溜息をつく。
一応お互いの身の潔白のために説明をするならば、別に次元と五右ェ門は喧嘩をしているわけではない。
数ヶ月前。修行に出るという五右ェ門を送り出すときに、次元がついつい『またか』と言ってしまったのである。次元としては大した意図も深い意味もないつもりだった。だが、その言葉を聞いた途端の五右ェ門は酷く憤慨したような悲しんだような不思議な表情を見せ、そして開きかけた口をきつく結んで次元に背を向けたのである。
それがずっと、その顔がずっと。次元の中で引っかかり続けていた。
なんとなく顔を合わせ辛い。その程度のものだったが、いざ五右ェ門に会ったときにどんな顔を見せればいいのか分からない以上気が重くなるのも無理はない。
ひとりでに重くなる足を引きずりながら山道から続く長い階段を上り終えてようやく山門へとたどり着いた時には、山は日暮れを迎えようとしていた。夕暮れ迫る山寺に人の気配はなく、お世辞にも広いとはいえない境内には蝉の声だけがこだましていた。勝手に歩き回ってもいいものなのか考えあぐねていると、視界の隅に開け放たれた本堂の中に見慣れた人の姿を見つけていた。
薄暗い本堂の中。仏像の前に座って瞑想するすっと伸びたその背中に目を奪われ、そのまま視線を外すことができなくなる。男の纏う凛とした空気に思わず声をかけるべきか逡巡していると。
「何の用だ。…次元」
清冽な気配とは対照的な、とてもとても穏やかな声が次元の耳に届いた。こちらを振り向くこともなく口を開いた男は、だが、今の言葉が幻聴であったのではと疑いたくなるほどに身じろぎひとつしない。
別に気配を殺していたわけでもないから、敏い五右ェ門が次元のことを気付いても不思議でもない。だがこうも平然と対応されたのでは、五右ェ門にあわせる顔がないのではと悶々としながら山を登ってきた自分はなんだったのかとも思いたくなる。わざわざ地球の裏側から迎えに来ているのだ。もう少しぐらい驚いてくれてもいいのではないのか。
「それが人に物を尋ねる態度か? にしても…よく、俺だって分かったな」
不満そうに言ってやればようやく、くるりと五右ェ門がこちらを向いた。少し痩せたか? その横顔を見ながらふとそんなことを思った。
「昨夜ルパンから連絡があった。近いうちにおぬしが迎えに来ると」
「あいつ…」
余計なことをしやがって…と、チッと舌打ちをする。長年の付き合いだし自分がルパンの頭脳についていけないのは百も承知だが、どうもこと五右ェ門のことに関しては特に、あいつの掌で踊らされているような気がして気に食わない。
「それに…」
「それに?」
次元を見詰めたままふっと笑った五右ェ門に、怪訝な顔で問えば。
「おぬしの匂いがした」
「 !」
その柔らかな声に心臓を鷲掴みされたかと思った。ついでにそのまま横っ面をはたかれでもしたような衝撃。だがそれだけ言うと、五右ェ門はまたくるりと向き直って瞑想を始める。何事もなかったかのように。
(畜生…なんて顔しやがる…)
「……俺が何で来たのか…ルパンから聞いてるんだろ? 仕事だ。帰るぞ」
高鳴る心臓をおさめてなんとか平静を装い告げるが。
「その前に…おぬし」
五右ェ門は次元のほうを向くこともなくまた口を開く。
「なんだ」
「ここへ来て一緒に瞑想しろ」
「は?」
思わず耳を疑った。
「どうせ今日は山を下りられぬ。今からでは日暮れに間に合わぬからな。少しぐらい付き合え」
五右ェ門のぶっきら棒で多少命令的な物言いは今に始まったことではない。強引だとは思うが、確かに五右ェ門の言うとおり夕闇の迫る今から山を降りるわけにはいかないのだから他にすることもない。
渋々と言った様子で次元は靴を脱いで本堂に上がりこむと、言われるがままに五右ェ門の隣、畳の上に腰を降ろした。
「どうすりゃいい」
「どうもせぬ。雑念を取り払ってただひたすらに己と向き合えばよい」
そういうと、五右ェ門は目を閉じてふうっと息を吐(つ)いた。途端、また本堂の中の空気が冴える。その清冽な空気に引き込まれるかのように、その隣で次元も目を閉じた。
五感の一つを制限されると、そのほかの感覚が鋭くなるものだ。建物の中だというのに外にいるときよりもさらに蝉の声が五月蝿く、まるで耳元で鳴いているかのように聞こえる。
(ああ、そうか…)
『次元の匂いがした』と、そう言った五右ェ門の言葉は嘘ではなかったのだということを、次元は身をもって体感する羽目になっていた。吹き込んでくる風に乗って、隣に座る五右ェ門の匂いが、息づかいが、届く。鼻で、耳で、全身の皮膚で、隣に座る男の存在を感じる。びりびりと鳥肌が立つほどに、感じる全てが強烈な刺激となる。
(ったく…これじゃあ拷問だぜ)
瞑想どころの話ではない。こんな状態で雑念を取り払って冷静に己と向き合うなど、到底できるわけもない。
鷲掴みにされたままの心臓がまた、高鳴る。今すぐにでも手を伸ばして触れて、抱きしめてしまいたい。その髪に顔を埋めて耳元で愛を囁きたい。雑念だらけの思考が稲妻のように頭の中を駆け巡る。
「…次元」
気が遠くなるほどの時間が経ったような気がしていたが、実際にはほんの数分の出来事だったらしい。
「…なんだ?」
あともう少しこの時間が続いていたら間違いなく行動に出ていただろう。なんとか耐え切って目を開ければ、闇に慣れた目には夕暮れの光さえも少し眩しく思えた。
「どうだ?」
「…どうもクソもあるか…ったく」
少しでも落ち着こうとポケットから取り出した煙草。しかし火をつけるよりも前に、『本堂だぞ』と顔を顰めた五右ェ門に奪われてしまう。
「何を思った?」
「…何も」
「何も?」
咎めるような視線が痛くて、大きく溜息をつく。答えるまで納得しないとその目が告げていた。
「……悪ぃがお前の隣に座って冷静で居られるほどには、俺は人間が出来ちゃいねぇってことがよーくわかったよ」
苛々と唇を噛み不貞腐れたように答える。それが五右ェ門の望んでいた答だとは思わないし、怒られるのは目に見えていたが、今は気の利いた言い訳も嘘も思いつきそうにない。だが意外にも。
「そうか」
五右ェ門はあっさりそう答えただけで、何事もなかったかのように立ち上がり本堂を後にしようとするではないか。
「おい待てよ!」
慌てて、脇を通り過ぎようする五右ェ門の袖を引く。ぐらりと五右ェ門の身体が傾いだ。
「な…!」
「お前はどうだったんだ?」
そのまま、バランスを崩した五右ェ門を支えるかのようにして抱きとめた。少し汗ばんだ身体が意外にも大人しく腕の中に納まった。
「ば、馬鹿者! よさぬか! 仏の前で…」
真っ赤になってそこでようやく慌てだす五右ェ門だったが、そんなことはどうでもいい。
「知ったこっちゃねぇ。お前はどうだったんだって聞いてるんだ。俺は『こう』したくて堪らなかったんだ」
抵抗する五右ェ門を逃げられないようにぎゅうっと抱きしめた。どくどくと耳元で聞こえる心音はどちらのものだ。触れた肌が熱いと思うのは次元の気のせいではないはず。
「なぁ、五右ェ門」
促すように名前を呼ぶと腕の中の身体がびくっと跳ねた。押し返そうとしていたはずの次元の肩口をぎゅうっと握りしめて、そして観念したようにそこに額を押し付け、そして。
「 」
ともすれば外で鳴く蝉の声にも掻き消されてしまいそうな微かな声で、小さく小さく囁いた。
「何?」
「…おぬしの隣にいて…拙者が、冷静で居れるわけがないであろう」
不本意だとでも言わぬばかりの皮肉めいた口調に笑ってしまう。なんとでも言ってくれればいい。それが何よりの愛の言葉にすら聞こえた自分はどうかしてると思う。
「だから、時々距離を置かねばならぬのだ…ずっとおぬしの隣にいたのでは…己がわからなくなる…」
途切れ途切れに告げられる言葉。それはきっと、別れの際に五右ェ門が告げたかった言葉。
分かっているのだ本当は。五右ェ門が何のために修行に出るかなど。だが分かっていてもつい出してしまった言葉は、きっとこの数ヶ月の間五右ェ門の心を蝕んでいたのだろう。
次元にとっては遠すぎる距離が。そして五右ェ門にとっては近すぎる距離が。不安を与える。不安定な関係を維持し続けるには、あまりにもお互い弱い。
つくづくに合わない二人だと思う。それでも。
「会いたかったぜ、五右ェ門」
五右ェ門の匂いに顔を埋めて囁いた。
「…お前はどうだ?」
「拙者は 」
黒い凛とした瞳がこちらを見据える。
夕刻を告げる、山寺の鐘が鳴った。
Fin.
【あとがき】
夏も終わるというころにようやく夏の次五祭りにこっそり提出させていただきました。
気分はまるで夏休みの宿題を居残りでやっている気分でしたが(笑)
これで少しでも次五好きさんが増えてくれたら嬉しいなと思う一心でございます^^
最期までお付き合いくださってありがとうございました!!
'12/09/26 秋月 拝